2019年7月11日木曜日

新しい時代の初等中等教育の在り方について

教育再生実行会議に仕事を奪われて,中央教育審議会がお休みなのかと勘違いしていたが,やはり利権に直接からみにくい話題の方は,従来のように中教審で議論されていた。うかつなことに見落としていたのが,今年の4月17日に文部科学大臣が諮問した「新しい時代の初等中等教育の在り方について」だ。初等中等教育分科会のもとに,新しい時代の初等中等教育の在り方特別部会が設置され,6月27日から議論がスタートしている。いつものメンバーであるが,兵庫教育大の加治佐学長,プロップステーションの竹中ナミさん,東北大の堀田さんが入っている。臨時委員には京都教育大学の浜田麻里さん(日本語教育)やキャリアリンクの若江眞紀さんの名前もみられる。新しい時代の高等学校教育の在り方だけは,ワーキンググループが設けられている。

諮問理由は,「今後の社会状況の変化を見据え,初等中等教育の現状及び課題を踏まえ,これからの初等中等教育の在り方について総合的に検討」ということだ。社会状況の変化とは,いわゆる経産省的Society 5.0と,人口減少があげられている。初等中等教育の現状と課題とは,読解力+汎用基礎力的な内容と特別な配慮が必要な子どもの増加と教員の働き方改革×教員採用倍率の低下のことらしい。

そこで,次の4項目が取り上げられ,まず1と4から始め,その後2,3へと進むようだ。
1 新時代に対応した義務教育の在り方について
2 新時代に対応した高等学校教育の在り方について
3 増加する外国人児童生徒等への教育の在り方について
4 これからの時代に応じた教師の在り方や教育環境の整備等について

答えはある程度書いてあって,1は小学校教科担任制の導入と習熟別指導の導入,障害をもった子どもとギフティッドなどの個別対応の推進,2は普通科の解体とSTEAM教育の推進(でもこれは別のところで議論する),3は外国人児童生徒の就学支援と日本語・日本文化教育,4は教員の多様化を目指す免許制度改革,うーん,学校のブラック労働環境をなんとかして教員志望者を増やそうというような話は完全に後方に退いてしまっていた。

結局,すけてみえるのは多様性を旗印にしながら,階層社会化をさらに進めるということのようだ。

2019年7月10日水曜日

第25回参議院議員通常選挙

第25回参議院議員通常選挙の投票日は7月21日(日)だが,期日前投票のため市役所まで往復した。今回の目玉は,山本太郎がひきいる「れいわ新選組」。自動車のラジオからは,トランプ政権が有志連合の軍をホルムズ海峡に派遣して,イランに圧力をかけようとしているというニュースが流れてきた。日本への踏み絵だ。憂鬱な時代の変わり目がきてしまった。そして,日本もまた,トランプに倣うかのように,国際捕鯨委員会から脱退しただけでなく,韓国への貿易制裁まではじめてしまった。

こわいものみたさで,自民党の政見放送を見る。内容はまったくひどいのだが,三原じゅん子のしゃべり方は悪くはない。そのため,安倍晋三の滑舌の悪さが際立ってしまう。いつもはNHKのニュースの「神」編集で見ているのでそこまで感じないことが多いのだけれど,通しで聞くとこれだ・・・orz。やはり,国会審議はいずれかのチャンネルでノーカットですべてを放送すべきである。しかし,この聞き苦しさが,とんでもない話を良く噛まずにスッと丸飲みさせるための秘訣なのかもしれない。あれ,アベノミクスといわず三本の矢の経済政策といったのはなぜだ。その後,アベノミクスの果実を生かしてとのお言葉あり。後半は野党批判でまとめ,三原じゅん子の,先の国会演説を褒めるシンゾー。

2019年7月9日火曜日

ノウアスフィア

新国立劇場で,テイヤール・ド・シャルダンの生涯を描いた「骨と十字架」の公演が,7月11日から始まる(7月6・7日にプレビュー)。矢島道子さんがMLで紹介しており「ノースフェーラを提案し」と書いていたのでなんだろうと思った。

さて,テイヤール・ド・シャルダンの「現象としての人間」を買ったのは大学生の頃だ。その頃の愛読書の文学や理工書以外で印象に残っているのは,コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」,エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」,ディヴィッド・リースマンの「孤独な群衆」,バローズ・ダンハムの「現代の神話」と並んで,ティヤール・ド・シャルダン(ティと発音すると思い込んでいた)の「現象としての人間」だった。

調べてみると,ノースフェーラ(ヴェルナツキー,ロシア文化界隈,叡知圏)は,noosphereの訳語だった。訳語は1つに定まっておらず「ノウアスフィア(山形浩生,オープンソース界隈)」,「ヌースフィア(怪しい系界隈,精神圏)」などもある。テイヤール・ド・シャルダンやヴェルナツキーがいうには,物質=精神進化の段階により,ジオスフィア(地質圏)→バイオスフィア(生物圏)→ノウアスフィア(叡智圏)が形成されるということだ。

テイヤール・ド・シャルダンは神学者・科学者として,キリスト教と相容れないキリスト教的進化論を提唱した。宇宙の進化は叡智の究極としてのオメガ点を目指しており,その完成がコスミック・キリストの誕生を意味するというストーリーは,小松左京の「神への長い道」などのコンセプトと一致する。小松左京はピランデルロを専門としていたが,テイヤール・ド・シャルダンについてどこまで語っていただろう。いや,自分が「現象としての人間」を手にとったのも,SF界のどこかでそれを目にしたからに違いないとは思う。

テイヤール・ド・シャルダンのオメガ点やノウアスフィアは,科学のフレーバがただよっている論考ではあるが,これはもちろん科学ではなく,あくまでも思弁(スペキュレーション)の一つである。しかし,その概念は今となっては,傾聴に値するものに近づいてきているのではないか。

バイオスフィアとほぼ並行に,世界は意識を持った人であふれ,未だ意識をもたない電子脳(コンピュータ)や電子感覚器(センサー)や電子神経系(インターネット)の大群が,世界中の意識を持ったヒトと,ヒトが作り出した人工物の生態系を網目のように繋ごうとしているのを見て,このグローバルな複雑系を,バイオスフィアに対応するノウアスフィアと呼ぶことには全く抵抗がない。果たして,そのノウアスフィア上に一つのあるいは複数の人工的な意識=神が誕生するのだろうか。

2019年7月8日月曜日

新聞記者

リタイアすると,平日の昼に映画を見ることができるようになった。新ノ口のシネマ橿原で「新聞記者」を上映していたのでいってきた。はい,朝から老人ばかりです。東京新聞の望月衣塑子が原作を書いていおり,東京新聞が映画の製作にも協力している。この映画は「シン・ゴジラ」のようにカタルシスを与えるものではなく,「この世界の片隅に」のように現実のディテイルからなにかを紡ぎ出すものでもなく,「主戦場」のように課題を照射するものでもなかった。抽象的で抑制的な画像と演出の中で,現実の世界のできごとと相似な世界が描かれていく。

登場するのは,新聞記者と官僚とそれらの家族三組だけであり,安倍晋三も加計孝太郎も,政治家や企業家はまったく登場しない。それはそれでありだと思う。物語の構造は非常に単純であり深みはない。いや,小説より奇な現実の非常にうまい写像になっているために,見慣れた風景にしか見えないといったほうがよいかもしれない。気がつかなかった視点を新たに提供するものでもない。南彰と前川喜平とマーティンファクラーと望月衣塑子の対談が埋め込まれているのだが,映画のストーリーと完全にシンクロして矛盾しない。そしてひたすら,現実世界の少し裏側にすけてみえる内閣調査室のカラクリを提示してくる。

主演女優のシム・ウンギョンはとてもよかったが,松阪桃李は努力賞といったところか。映画で重要な役割を果たした多田の田中哲司が,尾美としのりにしか見えなかった自分の識別力に問題があったのかもしれない。というわけで,菅野完にいわせれば望月衣塑子の世界観が間違っとるからということになるのかもしれない。家族のドラマのところでもっとドロドロしたものが出てくるのかと思っていたら,そうではなく定型的なパターンだった。原作の問題なのか監督や演出の問題なのか。

もうひとつ引っかかったのが,加計学園のモデルにダグウェイ羊事件をからめたところである。内閣府主導の軍事目的施設というのはちょっとどうかと思う。現実の加計学園はそれどころではない,グダグダの施設でほとんど学園の資金計画ありきの間に合わせの計画だったように報道(マスコミではない)されているので,なかなかリアリティを持つことができなかった。

P. S. ニューヨーク公共図書館の映画の予告編がよかった。

2019年7月7日日曜日

記述式問題の問題

大学入試に記述式問題が必要であるというロジックはどうなっているのか。まずは,教育再生実行会議の中から, 第四次提言高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について(平成25年10月31日)をみなければならないだろう。

要約
○グローバル化とイノベーションに対応する人材の質が重要であり教育がその要
○大学入学者選抜が教育の在り方を大きく左右する。知識偏重の一点刻み試験や,学力不問のAO入試はだめ。高校教育+大学教育+入学者選抜の一体的改革が必要
○高校教育:生徒の多様性を踏まえた特色化+主体的に学び社会に貢献する能力
○大学教育:厳格な卒業認定及び教育内容・方法の可視化+人材育成機能を強化
○入学者選抜:能力・意欲・適性を多面的・総合的に評価・判定するものに転換

大学入試センター試験の改革は,当初,複数回実施の達成度テストという話のはずだった。しかし,現実と折り合わせた結果は,大学入試共通テスト(記述問題+英語民間試験)というところに落ち着いてしまった。面接や活動の重視と生徒の多様性を踏まえた高等学校の特色化という主張から見えるのは,色濃く漂う社会階層の分離政策である。なんだかなあ。

記述式テストは個別学力検査において,これまでも十分実施されてきた。一方,アルバイトを含む1万人の採点者が標準化された採点基準で公平な(提言元は,一点刻みを否定しており,公平性や公正性なんかクソ食らえと思っているかもしれないが)試験をするためには,マークシート並のレベルの問題に落とし込まなければならないだろう。今のセンター試験は十分工夫されていて,単純な知識偏重問題ではない。なんだかなあ・・・orz

ミクロにみるとこの大学入試改革で得をするのは,教育関連産業とそのロビーであり,御用学者であり,システム開発企業であり,それらに力を及ぼすことができる政治家だろう。また損をするのは,振り回される側の受験生・家族や,高校・大学教員ということになる。それはそれとして,この結果,当初のもくろみのように,高校や大学の教育が改善されて,質の高い人材が本当に育成されることになるのかどうかだ。この国の文部科学省や財務省はエビデンス・エビデンスと口を酸っぱくして畳みかけてくるが,彼ら自身が,政策の効果を測定した結果を公開し,それによって政策担当者を評価しているという話はあまり聞いたことがない。

2019年7月6日土曜日

大学入学共通テストの採点

大学入学共通テストの採点に学生アルバイトを使うことがNHKで報道され,波紋を呼んでいる。既に実施されたプレテストでは,ベネッセが学生アルバイトを使って採点している。本番で必要な採点者数は約1万人ということだ。採点時期も通常の大学の授業期間であり,その他さまざまな懸念が示されている。

こんなに拙速に物事が進められているのはなぜか。一つは,インターネットの普及を契機として,世界全体が大きく変貌しつつあることだ。先進国の中で日本社会だけがイノベーションに取り残されかけているので,なんとかしなければならない,そのためには教育を変える必要があるというわけだ。これに,自民党右派による戦後民主主義に対する反動的な動きが加わることで,「教育改革」の推進に拍車がかかっている。

従来であれば,中央教育審議会が教育政策の方向性を決めていたはずなのだが,いまでは,政策のベクトルは自由民主党の教育再生実行本部を発信源としてあらかじめ設定され,それを官邸主導で廻す教育再生実行会議でブーストしてただちに実行するという作戦がとられている。

最近の日本の教育政策の実現度には非常に目覚ましいものがある。教育基本法が改定され,国立大学が法人化され,道徳が特別の教科となり,日本の教育はほぼ回復不能な形に切り刻まれつつある。特に問題なのが,新自由主義的な考え方の浸透であり,公教育は私企業の営利活動の草刈り場に変貌しつつある。それは,道徳教育の推進や教育委員会の解体と変貌によってもたらされる権威主義との間で微妙なバランスをとられている。

その象徴的な事態として,大学入学共通テストにおける英語民間試験の導入と,記述式問題の採点の民間委託があげられる。政策担当者が主張する本来の目的と,彼らが実践している真のねらいとの間に大きな矛盾が噴出して混乱している。政策を主導する側は,このまま突っ走るのであろう。多くの教育関係者は,これはまずいと思っているが,すでに大学にはこれに抵抗するエネルギーが存在していない。2045年を迎える前に,大学入学試験に関るシンギュラリティが発生するかもしれない。

P. S. 自由民主党の教育再生実行本部は,なぜ,党組織の中できれいに位置付いていないのだろうか。少なくとも,自民党のホームページではぐずぐずになっている。提言の文書ファイルが散発的にニュースに埋め込まれているが,全体を通覧できるまとまったページは存在しないし,自民党の「政策ページ」の下にも他の本部のようなバーナーすらない。あたかも,下村+安倍ラインが私的にマネジメントしているかのように。

[1]教育再生会議(2006-2008)
[2]教育再生懇談会(2008-2009)
[3]自由民主党教育再生実行本部(2012-)
https://www.jimin.jp/news/policy/130290.html
第一次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/130321.html
第二次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/130323.html
https://www.jimin.jp/news/policy/130322.html
https://www.jimin.jp/news/policy/124927.html
第三次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/124911.html
第四次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/127697.html
第五次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/127748.html
第六次提言 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/dai36/sankou2.pdf
第七次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/133741.html
第八次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/134987.html
第九次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/136348.html
第十次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/137394.html
第十一次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/138660.html
第十二次提言 https://www.jimin.jp/news/policy/139621.html
[4]教育再生実行会議(2013-)
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouikusaisei/teigen.html

2019年7月5日金曜日

Numba

奥村さんが,奥村さんに,Numbaを勧めていたので,調べてみた。Pythonの関数を実行時にJITコンパイルして最大200倍高速化するとのこと。具体例がMyEnigmaのブログ記事にあった。検証用コードは次のようなものだ。自分の環境では,pip3 install numbaでインストールできてしまったが,上記記事を参考にしたほうがよいかもしれない。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
#! /usr/local/bin/python3
# -*- coding: utf-8 -*-

##from numba import jit
from numpy import arange
import time

##@jit
def sum2d(arr):
    M, N = arr.shape
    result = 0.0
    for i in range(M):
        for j in range(N):
            result += arr[i, j]
    return result

start = time.time()
a = arange(100000000).reshape(10000, 10000)
print(sum2d(a))
elapsed_time = time.time() - start
print ("elapsed_time:{0}".format(elapsed_time) + "[sec]")
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

##の2行をオン(test2.py)にするか,オフ(test1.py)にするかで次の結果を得た。
マシンは非力な,MacBookAir 13-inch Late2010

 ./test1.py
4999999950000000.0
elapsed_time:75.88523197174072[sec]
 ./test2.py
4999999950000000.0
elapsed_time:5.047018051147461[sec]

うーん,200倍ではなくて,25倍だった。

2019年7月4日木曜日

フッ化水素酸

たいへん残念なことには,いつの間にか韓国バッシングがこの国の作法となってしまったようだ。韓流ドラマにはまったときは(いまでもそうだが),50年前と比べてなんとすごい世界に変貌したのかと思っていたのだが,いつの間にか逆コースである。政権側が率先してあの調子だから,ネトウヨだけでなく,多くのマスコミやインテリ層が安心して叩きにかかっている。これというのも日本が余裕をなくすほどの衰退の坂を下っているからだろう。それに反比例するように,日本スゴイと中国+朝鮮半島 disの合唱が聞こえてくる。

その制限品目のフッ化水素,常温では気体で扱いにくそうなので,フッ化水素酸として使いそうなものだけれど,よくわからない。大阪の2つの中小企業が国内生産シェアのほとんどを握っているようだ。高等学校の化学で,細心の注意を払いながらフッ化水素酸を取り扱い,ガラスに文字を書いて腐食させる実験を行った。何やら意味ありげにKの文字を書いたのだった。

理数科に在籍していた当時の金沢泉丘高校の理科では,生物や化学はそれぞれの実験室で授業があり,ごくたまには生徒実験もあった。地学は教室だったが,プリントを使った地質図の作業などがあった。ほとんど受験問題対応であった物理だけはまったく実験がなかった(一度だけ,光の実験があったかもしれない)。数学の時間でさえ,プログラム電子式卓上計算機やアナログ計算機でのプログラミング実習があったのだが。今はSSHに指定されているので,当時とは大違いだと思われる。さて,それにもかかわらず,物理に興味があって,物理学科に進学することになってしまった。たぶんSFの影響だ。

当時,物理の次に興味を持ったのは生物である。これもSFの影響だ。遺伝と進化の未来を夢見てこれからは生物学の時代だと思った。阪大の受験でも第2志望は生物学科だった。そんなわけで,受験科目でもないのに定期試験で生物の勉強に集中していたため,医学部に進学するのかと思われていたことあるが, 生まれつきの臆病者で血を見ると卒倒するので医者にはなれない。

2019年7月3日水曜日

TOEIC撤退

独立行政法人大学入試センターによる大学入学共通テストが2020年度(=「2021年度入試」)から実施される。英語における民間試験の導入については,利用中止を求める国会請願が出され,TOEICが離脱するなど,予断を許さない状況である。例えば,日本英語検定協会をみるとかなり複雑なことになっているようだ。試験会場としては全国にテストセンターを設けるようだが,一方,某B社のGTECは高等学校を使うとかいうとんでもない話もあって,なにがなんだかよく分からない。

2019年7月2日火曜日

地には平和を

今月のNHKの100分 de名著は,小松左京スペシャルだ。ナビゲーターは宮崎哲弥。この番組のMCの伊集院光は,これまで見た回では,かなり的確なコメントをしていておもしろかった。ただ,彼はSFについてはあまり知らないような様子だった。初回の昨日は「地には平和を」,第1回のハヤカワ・SFコンテストの努力賞である。ちなみにこのときの入選は該当作なしで,佳作として,眉村卓の「下級アイデアマン」など3作が選ばれている。また,1962年の第2回には小松左京の「お茶漬けの味」が,半村良の「収穫」とともに,入選(第3席)になっている。

「地には平和を」を含む小松左京の第一短編集は,ハヤカワ・SFシリーズ(銀背)から出ており,自分が中学生のときに読んでいる(ちなみに小松左京の短編集で最初に購入したのは「日本売ります」)。番組の中では,「戦争はなかった」という短編についてもふれられていた。小松左京には他にも戦争と関係した作品が多い,というか1960年代の日本SFシーンに出てくる作品群は,高度経済成長の躁状態を支えると同時に,その裏側にどこか重いテーマが秘められている。もちろん,一般の日本文学はほとんどそんなトーンだったわけだが。

星新一の「白い服の男」はそういう戦争テーマSFの主要短編の1つであるが,「戦争はなかった」と同じような発想が含まれている。星新一の多くの短編の中でも強く印象に残ったものの一つだ。小松左京の「戦争はなかった」は読んでいたのだろうか,こちらのほうは,はっきりした記憶がない。

2019年7月1日月曜日

「神への長い道」と素粒子

神への長い道とツイッターからの続き) 

高校時代に読んだ小松左京の「神への長い道(1967年)」でもう一つ記憶に残った文がある。当時は,素粒子の標準理論が成立する前夜であり,小松左京の頭にあった素粒子といえば,光子,ニュートリノ,荷電レプトン,ハドロン(重粒子+中間子)であったはずだ。その段階で次のような文を書いている。
—物質の相互作用の間に,現在のような量子的関係が発生したのは,彼らにいわせれば,この宇宙に素粒子が生じてからだ,というんだ。われわれのいう,プランク恒数が,非常にマクロな時間の中では,かわってくると考えている—とにかく,その素粒子のスペクトルの中で,安定な素粒子がくみあわさって,原子が生じてくる。—きわめて巨大な量のエネルギーが,きわめて小さな空間に閉じ込められる,という現象が,ここでまた起こる。…彼らは,それが可能になる秘密は,秩序にあると考えている。ある秩序でもって,整理してつめこめば,非常に小さな時空容積内に,非常に巨大な量がつめこめる—この関係は,ずっと高次な情報段階までつづいているというのだ。 (引用:世界SF全集35 日本のSF(短編集)現代編 神への長い道 より)
プランク定数をプランク恒数という表現にしているところに1960年代を感じるが,物理の基本法則の成立の中核が秩序=情報(今日の言葉での対応物)と関係しているという説明に何ともいえないセンスを感じる。

2019年6月30日日曜日

「神への長い道」とツイッター

小松左京の中編「神への長い道」は高校時代に読んで,影響されたSFの一つだ。米島君にも銀背のハヤカワSFシリーズの短編集を貸したのだが,評価はなかなかよかった。しばらく前に,これが Twitter をかなり正確に予言しているとして話題になった。その部分を取り出してみよう。
五十六世紀人たちのしゃべる言葉は,長い場合は猛烈にはやかった。—まるで昆虫の翅音のようにしかきこえない。(中略)というよりは,大脳前頭葉が二十一世紀人に比べて極度に発達した彼らは,ほんの短い,感投詞(ママ)のような言葉を投げかけあうだけで,ほとんどの意味がつうじてしまうらしかった。しかし,長い議論になると,鳥のさえずりのような,せせらぎのようなせわしない声があたりにみちた。—彼が発見しておどろいたのは,五十六世紀人たちは,会話が熱をおびてくると,しばしば二人ないし,それ以上の人たちが,同時にしゃべりまくるということだった。最初はそれが受け答えになっているのかと思ったが,そうではないらしく,めいめいの人間は,相手のいっていることなどきかず,猛烈なスピードで自分の考えをしゃべりつづけ,相手のしゃべりつづけている話のうち,ほんの一つ二つの単語なりフレーズなりでなにかこちらが展開している思考にヒントとなるようなものがあれば,それが相手方の展開している思考系列のなかで,どういう順序,または意味で組みこまれているかということとは関係なく,それをこちらの思考の流れにとりいれて,また新たな方向へ,自分の考えを展開していくらしかった。—つまり,彼らの議論とは,めいめいが相互に情報発振源になってのべつ発振し,何かめいめいにとってそのなかで,瞬間的に共鳴する情報だけがコミュニケートすればいいのであって,相手の考えを全面的に理解する必要はなかったのだ。にもかかわらず,そのやり方は,相互に共鳴し,コミュニケートする情報が,ある確率でもって整理されていうことによって,りっぱに—むしろいちいち言葉の厳密さをたしかめて,煉瓦のように論理を構築していく古いやり方より,よっぽど効率良く—相互の思考を進展させ,同時にめいめいがちがった側面において,新しい問題に達することによって,ひろがりを深めていくのだった。
(引用:世界SF全集35 日本のSF(短編集)現代編「神への長い道」より)

今だと「情報発信」なのだろうが,この文脈では「発振」のほうがふさわしいようだ。たぶん,Twitterやその他のSNSの本質的な側面を非常にうまく表現している。実現したのが五十六世紀ではなく,二十一世紀だったが,我々は思考を進展できずにフェイクを撒き散らかし続けるという残念な段階にとどまったままである。人と人のコミュニケーションは山羊さんゆうびんのように原理的に困難なものなのかもしれない。

2019年6月29日土曜日

道徳教育ビッグデータ

20XX年,教育基本法が再度改正され,日本の教育の目的は,次のようになった。
第一条 教育は,道徳的人格の完成を目指し,国家及び社会の形成者として必要な強い心と頑強な身体を備えた国民の育成を期して行なう。

教育基本法の趣旨を踏まえるならば道徳教育がすべての教育課程の中心であるべきだ,という道徳教育学者の強い主張を支えに,学習指導要領のトップに特別の教科「道徳」が位置することになった。道徳教育を主担当できるのは,教職大学院の道徳教育エクステンションプログラムを修了した主幹教諭以上のものに限られる。全国で毎年400名が養成されており,将来的には,全国4万校の各学校に1名が配置される予定だ。

道徳教育は,道の教育に対応する知識の部分と,徳の教育に対応する実践の部分から成り立っている。道徳的な知識については,一人一台の学習コンピュータによって毎日15分,自分の好きな時間に学ぶことになっている。ゲーミフィケーションや児童心理学の知識をフル動員して作られたアドベンチャー型デジタル教材なので,子どもたちは喜んでこれにはまっている。

問題になるのは,徳の部分である。政治家や企業人だけにとどまらず,教師ですら道徳的な実践を日常的に続けることは難しい。いくら国民的道徳放送で洗脳を続けてるとはいえ,毎日のように道徳警察と道徳裁判所のお世話になる民が後を絶たたない。悪の芽は子どものうちから摘まなければならない。そこで考え出されたのが,学校の道徳通貨ゼン(Zen)の導入である。ゼンは「善」からきている。

全国の子どもたちの24時間のふるまいは,各学校ごとにデザインされ,すべての子ども達が日の丸の鉢巻きのように締めているウェアラブル・バンダナを通じて,全てライフレコーディングされる。バンダナは,位置,発話,聴覚,視覚,生体の各情報収集機能を持ち,各学校に建てられた無線通信塔を通じて,リアルタイムにネットワークアクセスすることによって,道徳教育ビッグデータとして収集されることになった。

国家戦略特区制度を活用し,文部科学省はある特定の業者にすべての運用を随意契約で委託した。情報は,セキュリティ万全のブロックチェーンで管理され,その β 社が運営する道徳クラウド上の道徳教育ビッグデータサイトに収集される。ビッグデータはつぶれかけていた国産企業の粋を集めた量子スーパーコンピュータを用いたディープモラルラーニングシステムにかけられ,これによって価値判断が行われる。

道徳教育を実効的なものにするため,道徳教育ビッグデータから各個人ごとに評価された結果は,道徳通貨ゼンに換算されて個人に付与されることになった。すべての行為には,時間と空間とネットワーク構造で変化する善悪の重みがダイナミックに定まり,児童生徒が持つ道徳通貨バーチャル通帳(通称ゼンノート)にゼンのポイントとして記録されていく。善行をつめばゼンが貯まり,悪いことをすればゼンが消耗する。

当初は,古典的な徳目が道徳の基準として設定されていたのであるが,ディープラーニングの学習が進むとともに,その基準は徐々に変化していった。通貨の本質が影響し,やがて毎月のように善悪の基準は変化するようになった。もう何が善で何が悪かは絶対的なものではない。何が事実で何がフェイクかが区別できなくなったのと同じである。簡単にいうと,ある種の投票システムのデリバディブによって善が決まっているのだ。このため,株式市況と並んで,道徳価値市況が毎日のネットニュースに流れている。

例えば,日刊ゼンポイントニュースサイトでは,次のような記事のネット番組が放送されている。本日のはやりの善行はこれだ。おとめ座でA型の君にお奨めの善行リスト。今日は避けたい方角と行為。みのがしてもらえる隠れ悪行のリスト。このネット動画をみてゼンポイントをかせごう。将来のゼンポイントのために,こんなスキル磨きに投資しよう。これが闇ゼンポイント交換サイトの全貌だ。大人の悪行を暴いてゼンポイントをかせげ。

さて,その通帳のゼンポイントの高によって,子どもたちの選択可能な進路が決まるのでたいへんだ。道徳帝大に入学するためには,高いポイントが必要だ。知識や技能を問う一斉マークシート試験などはとっくの昔に廃止されている。一般レベルの英語教育の四技能もバンダナの簡易翻訳機能のおかげで,あっという間に不要の長物になった。職業倫理に結びついたゼンポイントの基準が進学や就職のすべての鍵を握っている。

さて,このような世界で,競争が発生すると,他者に対してより高いゼンを獲得するためのベストな行動はどんなものになるのだろうか。そのために各個人のデジタル・ゼン・アシスタントは何をサジェストするのだろうか・・・続く


P. S. 虚構新聞じゃないけど,ゼンポイントがもう現実化してしまった・・・orz
 東京都,善行にポイント 小池知事「SDGsを切り口に」(日本経済新聞 2019.12.6)

2019年6月28日金曜日

教育ビッグデータ(3)

教育ビッグデータ(2)からの続き)

新時代の学びを支える先端技術活用推進方策 (最終まとめ)の,2.学校現場における先端技術・教育ビッグデータの効果的な活用をもう少しだけ読んでみた。

前段の「学校現場で先端技術の効果的な活用を促進するために」の方は次の項目からなる。
・遠隔・オンライン教育
・デジタル教科書・教材
・協働学習支援ツール
・AV・VR
・AIを活用したドリル
・センシング
・統合型校務支援システム

このうち遠隔・オンライン教育にかなりの説明を割いていることが目立つ。SINETの開放(といってもVPNの提供くらいしかメリットがなさそうだけど)に加えて,大学や企業を巻き込む「マッチング&アドバイザリープラットフォーム」機能を有するポータルサイトを創設するという提案まで踏み込んでいる。初等中等教育をダシに,SINETの強化を図るということ?よくわかりません。

その他の項目はなんだか手垢のついたものばかりで,目新しいものはないし,センシングも腰が引けている。総じて教育ビッグデータとの関連をきれいに見せきれていない。最近の情報教育の主流派のみなさんが推奨してきた一連のシステムを,総花的に並べている。なぜか,教育工学の伝統につながる学習履歴の収集とその分析というキーワードが強調されていないような気がする。危険・注意だからかもしれないが。

後段の「教育ビッグデータの現状・課題と可能性」では,関連企業団体であるICT CONNECT21 からの海外事例報告のあと,多くのページをデータの標準化の話に割いている。文部科学省による学校調査を自動化・効率化するためのシステムとして「教育ビッグデータ的なもの」を使うという話であればそれでよいのだろうと思う。まさに,英国モデルであり,各ベンダーはその標準を満足する個別システムを自由に設計すればよいのだから。

ところで,教育ビッグデータが目指しているとして,この政策まとめで最初に謳ったものはなんだったのだろうか。非常な危険を伴うが,「公正に個別最適化された学び 誰一人取り残すことなく子供の力を最大限引き出す学び」なのであれば,ちょっとベクトルが違うような気もしないではない。しかしながら,道徳教育でフル回転している現在の文部科学省が,教育ビッグデータといった瞬間,「道徳教育ビッグデータ」で統合される恐ろしい世界が迫ってくるようでなので,そうなれないのであれば逆に良いのかもしれない。

2019年6月27日木曜日

教育ビッグデータ(2)

教育ビッグデータ(1)からの続き)

文部科学省の政策提言に「教育ビッグデータ」という言葉を発見したときに軽い違和感があった。ディープラーニング(あるいはAI)が流行するにつれてやや背景に退き気味だった「ビッグデータ」に再会したような気分だった。

ビッグデータの定義は,「高ボリューム,高速度,高バラエティのいずれか(あるいは全て)の情報資産であり,新しい形の処理を必要とし,意思決定の高度化,見識の発見,プロセスの最適化に寄与する」である。ビックデータを背景にしながら,その解析にもちいられるディープラーニングがAIの表の顔としてもてはやされていた。

なお,教育ビッグデータ=教育データマイニングラーニング・アナリティクスということで,教育工学の何度目かのお色直しであり,25年前のインターネット,10年前のeラーニング・デジタル教科書,などの正当な後継者としての役割を与えられるのだろう。

Googleトレンドで,データマイニング,ビッグデータ,ディープラーニングのポピュラリティを,この15年間について調べると次のようになった。

図 Googleトレンドによる人気度の傾向

20年前にはやったデータマイニングは漸減している。2013年にはビッグデータがピークを迎え,その4年後にはディープラーニングがピークを迎えている。次には何がはやるのか楽しみだ。

[1]ビッグデータとは何か(総務省)
[2]教育ビッグデータ早わかり(デジタル・ノレッジ)
[3]教育ビッグデータを用いた教育・学習支援のためのクラウド情報基盤(京都大学)
[4]ラーニングアナリティクスセンター(九州大学基幹教育院)
[5]実用段階に入ったビッグデータの教育活用(岡山大学教育学部)
[6]教育ビッグデータで変わる教育(ベネッセ教育総合研究所)
[7]Enhancing Teaching and Learning Through Educational Data Mining and Learning Analytics: An Issue Brief(US Department of Education)
[8What is Big Data? A Consensual Definition and a Review of Key Research TopicsAndrea De Mauro, Marco Greco and Michele Grimaldi
[9]EducationalDatamining.org
[10]Learning Analytics (UNESCO)
[11]ビッグデータから見落とされる人間的洞察(トリシア・ワン)

教育ビッグデータ(3)に続く)

2019年6月26日水曜日

教育ビッグデータ(1)

2019年6月25日に,文部科学省は「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」を公表した。普通ならば,何らかの検討組織を編成して,文部科学大臣が諮問するような形を取りそうなものだ。ここでは,2018年11月に提出された「柴山・学びの革新プラン」というスケッチを踏まえて,文部科学省初等中等教育局に「学びの先端技術活用推進室」を新設している。そして,よく分からないブラックボックスで「地方自治体、事業者,研究者等の知見を有する関係者と意見交換」した結果として,3ヶ月で中間まとめ,半年で最終まとめを公表している。また,具体的な政策に落とし込む詰めの作業には今年いっぱいかかるようだ。(P. S. ただちに,先端技術・教育ビッグデータ利活用推進本部を設けて,そこで作業することになったのか)

以下,だらだらとした感想。

【1】社会構造や雇用環境の変化に対応する教育として,「子供の多様化に向き合った公正に個別最適化した学び」が必要だとしている。一歩間違うとかなり危険なものになりそうだが,そのあたりの重要な原理的な問題点にはあまり触れられることもなく,とりあえず結論を目指して突っ走ったような印象を受ける。

【2】上記目的ののために,ICT 環境を基盤とした先端技術や教育ビッグデータの活用が必要であるとしている。個別の学びのためにセンシング技術が重要だということで,日本中の子供たちに脳波や運動測定のためのヘッドギアか腕輪がつけられそうな勢いかと思ったが,説明の例としては発話と視線のデータ取得があげられている。

【3】EBPM(エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング)がということばが説明なしに使われているのかと思ったがこれは自分の勘違い。要は教育ビッグデータを収集・分析したいということだ。誰が。ベネッセですか。

【4】ビッグデータ化に関連して,学習指導要領のコード化によるデータの標準化のイメージが示されていた。教育コンテンツ一般とすると範囲が広すぎるけれど,学習指導要領は有限だからなんとかなるのか。探究学習などで指導要領から外れるコンテンツはどうするのかしら。あるいは旧NICER現在はGENESなのかNICERDBなのか)の二の舞いとか。

【5】SINETを初等中等教育に開放するといっても,結局教育委員会単位で束ねてつなぎ込むわけで。クラウドを推進するのであれば,各学校が独立にプロバイダーに直接つなぐ予算をつけるほうがよくないか。

【6】おまけとして,校務の効率化のため遠隔技術を活用した研修や会議を進めるとある。かつてのメディア教育開発センターの衛星通信システムSCSでは国立大学全体をカバーするような運用会議を実施していたけれど,あっという間に廃止されてしまった。

【7】結局,これらを実現するための学校ICT環境の整備+個人向け端末(私費)への誘導で,大手ベンダーやら内田洋行やらもろもろの企業に商機を与えるのが主目的なのかもしれない。

【8】従来取り散らかしながら進められてきた,あるいは進めようとして障害にぶつかっていたICT政策をてんこ盛りにしているような気がする。それもこれも,経産省フレーバに満ちあふれる官邸への対抗意識に満ちた忖度の結晶。

結論:教育ビッグデータは,EBPMによる予算獲得のための擬似餌の可能性が高い。十分に検討や設計がされておらず,これで収益を得る企業や組織は非常に限定される。ICT環境の基盤整備が本命で(受益企業などが圧倒的に増える),このブレークスルーのためにさまざまな要素を盛り込んだと思われる。あるいは,その構造全体を擬似餌とみれば,子どもたちが1人1端末を自由に学校で使う世界への第一歩をめざしているという,超希望的観測も成り立たないとはいえない。これまでの歴史をみれば,文部科学省が鳴り物入りで政策的に進めようとすることは,たいていつまづいたり大きな副作用を生ずるのだけれど。

教育ビッグデータ(2)に続く)

2019年6月25日火曜日

知識の定義

道徳教育(3)」で,いくつかの概念のオレオレ定義を考えた。村井実は特に道徳の「知識」の重要性を指摘した。その「知識の定義」を書き下そうとすると,これが思いのほか難物なのだった。他の概念も負けず劣らず難しいはずなのだが,比較的簡単に思い切ることができた。しかし,「知識」はそうはいかなかった。「科学」を定義したのだけれど,その中の登場する「知識」はブラックボックスのままであった。

例えば,精選日本国語大辞典には,
「(英 knowledge ドイツ Wissen の訳語)哲学で,認識活動によって得られ,客観的に確証された成果。広義には,諸事物について経験によって得られた断片的な事実認識もすべて含むが,狭義には,これらの事実認識を統一的に組織付け,普遍的な妥当性を要求できるように整えられた命題の体系」
とある。なかなかいいですね。

なるべく簡潔に表現したくて,次のように考えたところで挫折した。
知識の定義
 対象や事象に関して認識された情報から抽出されたもので,他の知識との関係の中に位置づけて理解や伝達を可能にしたもの
知識の中で知識が再帰定義されている。いずれにせよ,いまひとつなのだ。知識工学という分野もあるので,その方面で何かヒントがないか探してみるのだが,簡単には見つからない。やはり,科学哲学や認識論でどう扱われているかを勉強すべきなのか・・・続く。

[1]哲学概論−知識について(西脇与作)
[2]知識の哲学(戸田山和久)−コメント(伊勢田哲治)
[3]「知識」についての考え方のイメージ(たたき台)(文部科学省)・・・orz
[4]「思考力の分類学」と「知識」(反転授業研究会)

2019年6月24日月曜日

道徳教育(4)

(道徳教育(3)からの続き)

長田新の弟子である村井実は,今は村井純の父として名前が上ることが多いかもしれないが,1948年から1987年まで慶応義塾大学に在職していた教育哲学者である。村井実が1965年に発表した論文に「道徳は教えられるか」がある。平易な文章で明解な論理が示されており,道徳教育の原理を考える際の出発点の一つだと考えられる。

論文の内容を自分なりに要約すると次のようになる。

○「道徳を教えられるかどうか」は,ソクラテスの時代から現代の日本にいたるまで大きな課題である。道徳教育の必要性を議論し,実施のための課題の検討を進めるより前に,これを改めて問い直す必要がある。

○道徳の教育は,善悪や正義についての知識の教育と,その知識に従って行動する習慣の教育の2つの側面に分けることができる。前者が「道」に,後者が「徳」に対応する。

○道徳の知識は,(1)行為の目標や原理,(2)行為の条件や方法,(3)目標や原則に対する行為の認証,の3段階に分けられる。道徳教育を巡る最近の議論はこれらの知識の問題の吟味を欠いた情操の養成や意志の訓練に走っている。

○かつての修身教育は,行為の目標や原理の知識の注入にのみ終始し,さらに「徳」に関する教育との関係を考えていなかった。また,実際の行為の場における「道」の適用には,原則・原理の知識に加えて,歴史・社会・諸科学の知識や訓練が必要である。

○道徳教育が,歴史・社会・諸科学の知識だけでよいということにはならず,原理・原則との結びつきは必須である。また,「道」の知的要素を忘れた,心情への直接的働きかけに終始することも誤りである。

○知識がもののように授受されて教えられることはない。理解された状態をつくることが必要だ。一方,道徳に限って「教える」ことが実践的行為を保証するものでなければならないといえるのか。他の知識と同様に知的理解の上で導かれるのが実践的行為だと考えるのがよい。

○知的な理解が実践につながる例はつぎのようなものである。(1) 道徳的行為の一貫である必要条件としての目標や知識を「教える」場合。(2) 教えられるべき原理や目標が対立していて,それを克服することを「教える」必要がある場合。(3) 歴史の推移とともにある道徳的原理の廃止や変容に対処することを「教える」場合。(4) 道徳的な主体性を確立することを「教える」場合。

○道徳を「教える」ということは「道」の側面が重要な部分を占める。そのうえで,「徳」の教育は「道」を教えられた理性が,「私はそうしたくない」という矛盾から若人を救うためのものである。これらの道徳教育の必要条件を満たすことを求めるべきである。

[1]教育勅語・道徳教育に関する簡易年表(リブ・イン・ピース☆9+25)
[2]道徳の内容の歴史1890〜2015年(池田賢市・大森直樹)
[3]ラリサへの道(プラトン−ソクラテス)が,村井実の論文にある。
「メノンについては,プラトンの対話篇の中で叙述されている。そこでは,ソクラテスが正しい考えと科学の違いを,メノンを例に「ラリサへの道」として説明している。「ラリサへの道」とは、メノンが生きる道を信じて故郷のラリサを目指したように,それぞれ人間は、人生の中で真実を模索しながら、死という目的地へと生きている,と言ったのであった」(Wikipedia ラリサより引用)

2019年6月23日日曜日

道徳教育(3)

道徳教育(2)からの続き)

自分の考えを整理するために,自己流で概念を定義する(2019年版)。

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道徳の定義
 人の共同体を維持するために,社会慣習や行為基準を理念化し内面化させるもの

法の定義
 人の共同体を維持するために,構成員の行為を制約する制度的な枠組み

宗教の定義
 複雑化した社会を調停するために,超越的存在とそれへの帰依によって,
 人の共同体の矛盾を回避するための理念とこれを実現するシステム

倫理の定義
 道徳から宗教的な要素を取り除いた行為基準を客体化したもの

知識の定義
 対象や事象に関して認識された情報から抽出されたもので,他の知識との関係の中に位置づけて理解や伝達を可能にしたもの

科学の定義
 客観的に妥当する調査,観察,実験,推論などによって仮説検証を繰り返す過程から,対象世界に関する知識を獲得する活動

技術の定義
 対象の状態を変える,または創るための,再現や伝達が可能な方法や手段の体系(形式知)

技能の定義
 対象の状態を変える,または創るための,経験に根ざして個人に宿る方法や手段(暗黙知)

教育の定義
 人の共同体を維持するために,対象となる個人の技能を伸ばしながら,必要な知識や技術を伝えるための仕組み

学校教育の定義
 社会において,ある層を対象として組織的に教育を行うための制度的な枠組み

学校の定義
 学校教育を実施するための,組織・施設などのシステム

*社会システムは複雑系であることから,上記で用いられる「維持」とは保守的な概念ではなく,内外の状態や環境に対応して適応的に発展させることを含んでいる。
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ここから,学校において道徳教育が可能かどうかを考える。

道徳は普遍的なものではない。時代や民族や国あるいはそれらを構成する社会集団,例えば家族によっても異る可能性がある。あるいは,成育歴やおかれた社会環境によって,個人ごとに何が望ましい行為基準であるかは変動していておかしくない。いや,道徳は内面的な基準として作用するのであるから,本質的に個人に依存するものであり,いわゆる「価値多様化社会」においては大域的に共通な道徳概念は成立しにくい。したがって,ある道徳的な徳目が提示された場合には,それが誰にとってどんな意味を持つのか,その妥当性を局所的な視点で検討する必要がある。

道徳的な基準は,善悪,正邪,聖俗,美醜,苦楽,情理などのような行動基準に結びつく二項対立のリストに関係する。そして,ある事象に対したときの行動基準を定める上において,個人ごとに上記の項目を組み合わせた多次元の境界面の位置は異なる。一方,社会集団ごとにその境界面の構造は似通ったものとなることが想像され,集団ごとの道徳的な傾向といったものが考えられるかもしれない。そうであれば,社会集団ごとの利害関係にもとづく経済的・政治的な力関係によって,何が社会としての普遍的な基準としての道徳となるかが選択されることになる。

学習指導要領で提示されているような道徳教育の項目(徳目)は,知恵者たちによるロンダリングの結果,一見普遍的な妥当性を持つように思われる。しかし,よくみれば,それらはマクロなあるいはミクロな社会構造の中で支配的な立場にある側がその状態を維持するという目的にとって有利なものであることが見え隠れする。もちろん,社会集団が安定的に維持されることは,構成員にとっても正しいことでもあるかもしれない。しかし,その社会が矛盾をかかえていて,その矛盾を解決せずに維持しようとしている場合には,道徳は矛盾に苦しむ構成員に対する抑圧として強く作用することになる。

道徳教育は科学ではないので,時間や空間を越えた普遍的な妥当性を議論することに意味はない。もちろん,集団を維持するための生物学的なあるいは社会心理学的な知見にもとづいた傾向性が存在することまでは否定しない。だが,気をつけなければ,それらは道徳のあやしげな科学的裏付けに使われるだけだろう。問題は,道徳教育をいかにして価値観を押し付ける抑圧体系の輪廻から解脱させるかである。それは道徳という概念の枠組みでは本質的に困難ではないか。

もし,道徳教育を現在の学校教育のなかで位置づけるとすれば,安定した人間関係を築きながら社会に調和することを目指すと同時に,そこに生ずる様々な課題に立ち向かいながら解決できるようになるための具体的な技や方法を習得するとともに,その前提となる多様な視点や共感する力を獲得するための感性を養うことだろうか(結局は,教育する側が重要だと考える価値を注入するという方法論に自分自身が染まっていて,それから抜け出せていないようにも思う。現在の道徳教育推進論者たちと同じ穴に落ち込んでいるのか・・・orz)。

道徳を廃止し,生活科を解体再編して1〜6年の35時間の枠にしたい(1・2学年で各100時間余りある現行の生活科は,理科と社会に配分してあげて下さいw)。

参考文献

2019年6月22日土曜日

道徳教育(2)

道徳教育(1)からの続き)

現在のように「道徳」を特別な教科として格上げすることになったのは,2013年の3月に文部科学省に設置した「道徳教育の充実に関する懇談会」が同年12月に出した報告書,「今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告)~新しい時代を、人としてより良く生きる力を育てるために~ 」に基づくものである。

メンバーをみると,露骨に右寄りのイデオローグは含まれていないようだ(自分が知らないだけかもしれない)。道徳教育学プロパーが中心となっている。そもそも懇談会の名前が道徳教育の充実に関する・・・なので,議論する前から方向性や結論は決まっているようなものだ。安倍総裁のもとでの自由民主党の教育再生会議の徳育と体育の充実が議論の出発点になっているので,当然といえば当然なのだが。

道徳教育の必要性が,教育基本法の教育の目的の最初のフレーズ「教育は,人格の完成を目指し,・・・(これは旧教育基本法も同じ)」に源泉するとしている。つまり,人格の完成=道徳教育の方向性であることから,道徳教育の位置づけを教育課程全体に渡る非常に高いところにおこう,というのが道徳教育プロパーをコアとした懇談会メンバーの主流意見となっている。教育課程全体が道徳のもとに再編されるというたいへん恐ろしい事態が目前に迫っている。

これを補完するように,時代の変化に対応した高度専門分野の倫理の問題や,学校におけるいじめ問題や若者の規範意識の低下への対応のためであることなどが,耳あたりのよい説明として強調されている。それに加えて,「戦前の反省を踏まえた戦後の民主主義的な流れによって道徳教育が軽視されてきたこと」を否定することが,道徳教育の充実にとっては必要であるという,強い主張がなされている。しかし,これは道徳教育の存在を当然のように前提とした議論であり,現状分析は表層的なものにとどまっている。道徳教育の本質に遡っての反省や見直しが議論された様子はうかがえない。

この全体的な流れをやさしく復習しているのがこどもまなびラボの記事。また,苫野一徳さんと竹田青嗣さんなどの議論が参考になる。

[1]道徳教育の必要性とは?「特別の教科」になった本当の理由(こどもまなびラボ)
[2]竹田青嗣×苫野一徳 全面実施目前,『道徳』の本質を問う(×哲学プロジェクト)
[3]「道徳の教科化」に潜む“愛国教育”の危うさ 国が道徳観を定め教師が評価するのは適切か(福島創太)
[4]「よりマシ」な道徳教科書を,あなたの町の小学生に届けましょう(だい)
(このなかで最も高く評価されていた光村図書の道徳教科書には,千葉大学附属中学校の三宅健次先生が編集委員として加わっていた,その節はお世話になりました。また,最も評価の低かった教育出版の道徳教科書の宣伝VTRには,武蔵野大学の貝塚茂樹が登場していた。そういうことである。)

道徳教育(3)に続く)