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2019年5月21日火曜日

ねじまき少女:バチガルピ

ハヤカワ文庫 SF1809/SF1810の「ねじまき少女パオロ・バチガルピ)」を読了した。
奥付の日付は2011年なので,そのころに買っているはずだが,長らく積ん読く状態が続き,今年になって8年ぶりにようやく読み始めた。それでもだらだらと時間がかかってしまった。アマゾンの書評はさんざんであった。ヒューゴー賞・ネビュラ賞・ローカス賞・キャンベル記念賞を総なめにしているのだが,翻訳が悪いだの,世界観の欠陥だの,どとまるところを知らないコメントがついていた。

最近,細切れにしか本を読めなくなっていたのだが,この小説も,5人(レイク・アンダーソン,タン・ホクセン,ジェイディー,カニヤ,エミコ=ねじまき少女)の視点を移動しながら語られるので,その分読みやすかった。未来のバンコクのイメージや物語の設定もおもしろかったので,なんでそんなに評判が悪いのだろうか?映画化するには,エミコが暴れるシーンが最後にほしいところではあるが,それはそれ,これはこれ。


2019年4月28日日曜日

A3(2):森達也

A3(1):森達也からの続き)

全文無料公開された「A3」を読み始める前に,連合赤軍が連想されたことはあながち間違いではなかった。両者が戦後日本のある時代を区切る大きな惨劇であったというだけでなく,組織の内部で最初の殺戮へ至る過程や,それが常態化する様子などに何か共通するものが感じられた。そう,階層的な組織で権力の集中を防ぐことができない場合,必ず腐敗は発生するということ。それは最高権力者の絶対悪に帰されるるものではなくて,権力への忖度とそれに呼応する権力の誇示の共鳴によって成長する不可避な構造であるということを,森達也は主張しているように思えた。

オウム真理教の一連の事件,特に地下鉄サリン事件を首謀したのは麻原彰晃なのか,あるいはそれを取り巻いていた幹部連(村井,井上,早川,中川,新美)なのか,いずれの責任が重いのかという問題ではなかった。森はその事件を「本質は分散していた。仮想の特異点の周辺。そこに配置されているのは、側近である幹部信者たち。さらに一般の信者たち。そして外縁には彼らを包囲するこの社会。警察やメディアや司法、そして民意を形成する僕たち一人ひとりだ。この周辺と麻原との相互作用。そこに本質があった」と見立てている。

これは,麻原彰晃とオウム真理教幹部連を絶対悪として断罪してきた日本の司法やマスコミあるいは一般世論の見解とは一致するものではないのだろう。細部では,森のオウム真理教をめぐるジャーナリストとしての活動や考えについての様々な否定的な指摘があるのも事実だ。それにもかかわらず,次のフレーズは印象に残る「サリン事件以降、メディアによって不安と恐怖を煽られながら危機意識で飽和したレセプターは、やがて仮想敵を求め始める。治安状況における意識と実態との乖離を、何とか埋めようとする。検察や警察など捜査権力の暴走は加速し、厳罰化は進行し、設定した仮想敵国への敵意は増大する。隣国との摩擦はこれから増大するだろう。誤認逮捕や冤罪もさらに増えるだろう。自分たちは正義であり、無辜の民であり、害を為す悪を成敗するのだとの意識のもとに」。

あるいは,「人は権威に服従する。集団の動きに従う。あっさりと感覚を停止する。その帰結として惨劇が起きる。だからこそ検証が必要だ。暴走のメカニズムはどのように駆動して、どのように伝播し、最後にはどのように働いたのか。それは事件後の社会の責務のはずだ」ということには同意したかった。残念ながら我々は,いつものように恐怖に駆られ,思考を停止し,法や論理よりも情と空気によって社会を動かし続けている。

2019年4月20日土曜日

A3(1):森達也

森達也のオウム真理教についてのノンフィクション「A3」が無料公開されている。もともと2012年の暮に集英社文庫で出版されていたものをこの度公開した。まだ読み始めたばかりだが,これに共鳴するようにNHKのETV特集で,ドキュメンタリー「連合赤軍 終わりなき旅」を放映していた。A3はこれから読む。

A3(2):森達也に続く)

2019年3月18日月曜日

バラカ:桐野夏生

まわりからどんどん書店が消えていく。昔は,毎日の仕事の帰りには本屋に立ち寄って,新刊をチェックすることができたが,最近はその習慣が失われてしまった。先日,久しぶりに上本町の近鉄の書店(JUNKUDO)に立ち寄ったときに見つけたのが,桐野夏生の「バラカ(上・下)集英社文庫」だった。

桐野夏生の本は,昔「OUT」を図書館で借りて読んだ。その他にいくつか文庫本を買っていたはずだと思って調べると,昨年の部屋の片づけの際に処分していた。確か「柔らかな頬」と「グロテスク」だった。スパーク・ジョイがなかったのである。どんなストーリーだったかを思い出そうとしても印象に残っている部分がない。その点,「OUT」にははっきりした読後記憶がある。桐野夏生は1951年に金沢に生まれているけれど,3歳で引っ越しているので,自分の世界線との交わりはほとんどない。

さて,「バラカ」は,福島の原発事故が起こったもう一つの虚構の日本での出来事を描写している。部分的には納得できるのだが,全体として詰めが十分ではないと感じた。自分が期待していたのは,現実の日本を照射するもう一つの世界の精密な描写だった。著者の関心はその物語世界の中の人物造形や関係の方にあって,それはそれでおもしろかったが・・・後半はご都合主義的なまとめ方のような・・・

P. S. 作中でバラカ/おじいちゃんが愛読するのがカズオ・イシグロの「わたしを離さないで」だったので,これは読んでみようと思った。

2019年3月2日土曜日

電子計算機と人間

SSS 現代の科学シリーズというのが,1967年から1980年にかけて,河出書房新社から出版されていた。ちょうど中学の終わりから高校にかけて何冊かそろえていた。講談社のブルーバックスよりも少し上といった感じのシリーズである。最初に買ったのが,アイザック・アシモフの「化学の歴史」であり,中学の時に理科クラブで化学に取り組んでいたことに関係があるかもしれない。この本は今では,ちくま学芸文庫に収録されていているので入手しやすい。

もう一冊よく憶えているのがドナルド・フィンクの「電子計算機と人間」である。あと何冊かあったような気がするが,タイトルをみてもどれもピンとこないのである。もしかすると2冊だけしか持っていなかったのかもしれない。

「電子計算機と人間」は,石田晴久先生が最初に手がけられた本のようである。情報処理 Vol.50 No.7(2009年)に「あの時代」に想いをはせて−証言者たちからのメッセージ−として,2009年の3月に亡くなられた石田晴久の追悼特集が載っている。その中に,元bit誌編集長の小山透さんが石田先生の著述物の一覧を整理されている。その第1号が,1969年に出版された,高橋秀俊先生との共訳によるこの本なのだった。

写真:電子計算機と人間(アマゾンより引用)

金沢泉丘高等学校の理数科の1年でプログラミングのさわりを学ぼうとしていた自分にとっては,まさに時宜を得た読書体験であった。ところで,この本には,FORTRANのプログラミングで円周率を求めるという話が延々と書いてあったのだが,どうして円周率が求まるのかがさっぱりわからず,狐につままれたような思いが残っているのだった。いったい,どんなアルゴリズムを用いようとしていたのだろうか。

円周率の計算に続く)

2019年2月4日月曜日

草枕:夏目漱石

夏目漱石の草枕は読んだことがない。冒頭の一節は有名なのだけれど。青空文庫の草枕からその部分を引用してみると,
 山路を登りながら、こう考えた。
 に働けばが立つ。させば流される。意地をせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさがじると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいとった時、詩が生れて、が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命がる。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするがい。
草枕は普通の小説ではないようで,物語が進まない気がして,三四郎・それから・門・彼岸過迄・行人・こころ・明暗などの延長線上のテンションでは,読む気力が出なかったのだと思う。この度,youtubeで草枕の朗読をざっくりと聞いてみた。前編後編をあわせて5時間半ほどある。

蘆雪や若冲の話が出てきたので,ああ,そんな話だったのかと思ってなんだか親しみが湧いてきた。その若冲の部分を青空文庫から引用すると次のようになっている。
横を向く。にかかっている若冲の鶴の図が目につく。これは商売柄だけに、部屋に這入った時、すでに逸品と認めた。若冲の図は大抵精緻な彩色ものが多いが、この鶴は世間に気兼なしの一筆がきで、一本足ですらりと立った上に、卵形の胴がふわっとかっている様子は、はなはだ吾意を得て、飄逸は、長いのさきまでっている。
ところで,松岡正剛の千夜千冊の583夜が「草枕」である。そこには,「そんなことを思いながら横に目を凝らすと若冲の鶏がいる。複製の商品だ。」とある。若冲といえば鶏というのは普通はそうだが,ここは精緻な彩色の鶏ではなくて,一筆書きの卵形の鶴でなければならないのである。複製の商品というのはどこからでてきたのだ。まあ,そんな瑣末なことはどうでもよいが,千夜千冊の記事の中で松岡正剛は漱石を巡る重要な指摘をしているように思った。

P. S. 草枕の那美のモデルが,前田卓(つな)なのだそうで,ここからも歴史がつながる

「春立つや子規より手紙漱石へ」 (榎本好宏 1937-)

2019年1月13日日曜日

献灯使:多和田葉子

講談社文庫の献灯使(多和田葉子)を読了。中編小説の「献灯使」と3つの短編小説1つの戯曲からなる短編集。「韋駄天どこまでも」に稲垣足穂のフレーバーを感じる。斎藤美奈子の岩波新書の「日本の同時代小説」の2010年代の項では,ディストピア小説に向う純文学として,佐藤友哉の「ベッドサイド・マーダーケース(未読)」,吉村萬壱の「ボラード病(未読)」と並んで多和田葉子の上記短編集の中から「不死の島」が取り上げられている。最近の純文学は半分くらいSFフレーバーな作品によって占められているのか・・・。

多和田葉子の献灯使は書評でかなり好意的に取り上げられていたので,期待が大きかった分だけ少し残念かもしれない。もう少し他の本も読んでみよう。




P. S. 「日本の同時代小説」に登場しなかった作家で気になったのは,三枝和子。たぶん,一定の広がりを持った作品を中心に構成しているためだろう。

P. P. S. 「日本の同時代小説」では,主に1960年代から2010年代に渡る350名程度の作家が取り上げられているが,自分が読んだことがある作家は,そのうち約1/4の90名程度か。知らない世界が多すぎる。

2018年12月31日月曜日

冷血(下):高村薫

冷血(上):高村薫からの続き

小晦日に,マンションの自転車置き場の自転車に来年用のシール(印刷が平成から西暦に変更された)を貼ろうとした。強風のせいなのか自分の自転車を含んで10台以上が将棋倒しになっていた。端から順に起そうとしたところ,最初の2台が絡み合っていて無理に力を入れたため,ぎっくり腰になってしまい往生している。この年末年始は要介護認定状態の予行演習で終わってしまいそうだ。

予想通り,冷血の下巻では上巻以上の何かはまったく生起しない。いろいろな登場人物のモノローグの集合で終わってしまった。しかもそのモノローグは,ほとんどが高村薫の口から直接に発せられているような同じ響きを帯びている。気になった単語は「とまれ」。ともあれかくもあれ→ともあれ→とまれ,さもあればあれ→さもあれ→さまれ,のとまれが地の文で多用されていた。戸田吉生の文中には「ともあれ」で出てきていたが,井上克美の文中に一ヶ所「とまれ」がでてきた。小説にカタルシスを求めるのであれば,「冷血」は期待外れとなるかもしれない。黒板への板書だけで授業を進めるように,ゆっくりと同じテーマを何度も塗り重ねて,アクティブ・リーディングを誘導するという意味ではありかなと思う。

法務に係わるものにせよ,科学に係わるものにせよ,教育に係わるものにせよ,自分たち自身を,自分たちのステークホールダーを,あるいは自分たちの振るまいを見る世間を,納得させるために,一定の因果関係とそれを物語る言葉を必要としているということだろう。物語を必要としないのは,結果をマネーで測定できる人達だけなのかもしれない。そして,我々は既存の物語が不要な世界を目指す船に乗っている。“その中においてですね” 歴史的事実や統計データや行政文書の隠蔽や改竄がしごくあたりまえのように遂行され,物語がいつのまにかすり替えられてしまう。みなが薄々気付いているはずだが,何も見なかった振りをするか,逆に,声高にニセの物語を語り始める。もう,それに対する歯止めはきかなくなっている。

「大晦日定めなき世の定めかな」(井原西鶴 1642-1693)


2018年12月15日土曜日

冷血(上):高村薫

東京までの往復の車内で,新潮文庫の高村薫の冷血(上)を読んだ。第1章の事件と第2章の警察の475ページ。下巻が第3章個々の生または死が440ページである。分速1ページくらいで読める(でしか読めない)。最近,仕事に向う電車の車内(片道1時間)で,ほとんど文庫本が読めなくなってしまった。2008年の8月11日(母親の誕生日)に(米国から1年遅れで)ソフトバンクが日本で初めて発売したiPhoneを購入して以来,徐々に本を読む時間が,iPhoneでの情報摂取時間で置き換えられてしまった結果である。その前に読んだ小説は,マーガレット・アトウッドの侍女の物語,これは時間をかけて味わうことができたSFだ。今年はこの2−3冊で終わるのか・・・

さて冷血である。事件までの経緯や二人が逮捕されるまでの経緯は,上巻でほぼ明らかになっているので,下巻がどうなるかだ。少し読み始めたが,まだ様子はわからない。パチスロやクルマや警察無線と捜査人員編成の具体的なディーテイルが描き込まれている。アマゾンの書評はあまり芳しくない。しかし自分には高村薫を読めるだけでありがたいことなので,先日大阪キタの堂島アバンザにあるジュンク堂本店で発見したときには迷わず購入した。ちょっと気になったのは,筑波大学附属中学1年生の高梨あゆみが数学オリンピックを目指すような少女なので,数学についての用語がいくつかでてくるところ。悪くはないとおもうのだけど,ちょっとだけ違和感を感じる。これだけ入念に調査した専門的な内容であっても,その道の専門家がみれば・・・ということはあるのだろう。

事件の幕が開くのが2002年の12月17日で ,東京の地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅が出てくるのだが,この本を読み始めたのが,12月15日で,この日はたまたま筑波大学附属高校で日本物理教育学会の第3回理事会があったため,茗荷谷駅近くのお洒落な喫茶店Galleria Caffé U_Uでこの小説を読むというシンクロニティ(非因果的連関)があった。自分にとっての代表的なシンクロニティは,庄司薫の「さよなら怪傑黒頭巾」を1970年の5月の連休に高校2年生の自分が読んでいたというシチュエーションである。完全に非因果的とは言えないかもしれないけれど。さて「冷血」といえばトルーマン・カポーティの冷血が連想されたのだけど,読んだことはない。実際の事件を非常に丁寧に取材した小説らしい。高村薫のほうは,世田谷一家殺人事件との関係が指摘されてもいたが,あまり関係ないのではないかと思った。はやく下巻を読みたい。

冷血(下):高村薫に続く)

2018年12月11日火曜日

リップ・ヴァン・ウィンクル

 1970年の大阪万博で,中央環状線南東のエキスポランドにあった5並列ジェットコースターの名前がダイダラザウルスである。生まれて始めてのジェットコースター体験が,万博終了後何年かのちに縮小再開されたそれだった。最高点から走り出してまもなく,止めて頂戴ね,と思ったがもう遅かった。

 ダイダラザウルスは,日本民話のダイダラボッチに由来するらしいが,子どものときにこの話を見聞きしたことはない。かわりに親しんでいたのはアメリカ民話のポール・バニヤンという大男の豪快な物語であり,これは子ども雑誌で読んだ記憶がある(少年ブックの連載時から親しんでいた,手塚治虫のビッグXとイメージが重なるということはなかったですね)。

 ポール・バニヤンの隣に記憶されているのが,リップ・ヴァン・ウィンクルで,NHKテレビの子ども番組で見たことがある。日本の浦島太郎のような話で,山奥の不思議なところでボウリングと酒盛りにしばらく興じていると,地上では何年も経っていたという話。リップ・ヴァン・ウィンクルは,「時代遅れの人」,「眠ってばかりいる人」の代名詞になっているようだが,まさに,今の自分であることを痛感する。

 いつの間にか,High Sierra on MacBook Pro で特定のフォーマットの CD-ROMが読めなくなってしまい,Firewireもなくなって,Thunderbolt2とThunderbolt3=USB-Cのコネクタの変換が,オスメスとコネクタ端子サイズ条件を含めて無理筋なことに気付くのであった。

 今日の結論,時の経つのが早すぎるので,止めて頂戴ね。