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2019年10月14日月曜日

台風の重さ

台風とは,熱帯の海上で発生する低気圧(熱帯低気圧)のうち
(1)北西太平洋(赤道より北で東経180度より西の領域)または南シナ海に存在し,(2)低気圧域内の最大風速(10分間平均)がおよそ17m/s以上のものを指す。

気象庁の台風の大きさと強さの解説ページによれば,最大風速の大きさの範囲によって,台風は,無印(17m/s以上33m/s未満),強い(33m/s以上44m/s未満),非常に強い(44m/s以上54m/s未満),猛烈な(54m/s以上)の4段階に分類される。また,風速15m/s以上の半径を基準とする大きさは無印(500km未満),大型=大きい(500km以上800km未満),超大型=非常に大きい(800km以上)の3段階に分類される。

そこで,台風の半径を500km高さを10kmとすると,その体積は,10^6 km^3となる。空気は1Lで1.25gだから1m^3で約1kg 1km^3で10^9 kgであるから,台風の領域に含まれる空気の全質量は10^15 kgとなる。1辺が10kmの水の質量と同じくらいだ。

実際には空気だけの塊でなく凝結した水蒸気(雲)混じりの流体だが,飽和水蒸気圧は気圧の数%のオーダーなので,ほぼ空気の塊とした質量と変わりがないと思われる。台風の中心が時速36kmで運動しているならば,台風の重心の並進運動の運動エネルギーは5×10^16 Jとなる。

台風の運動エネルギーに続く)

2019年10月12日土曜日

台風の角運動量

台風を,時間的に変化するある領域を区画した巨視的な物体だとしたときに,その質量や速度を考えることができる。このとき台風の中心が重心とほぼ近いものになったらわかりやすいが,衛星写真で雲の分布をみると,必ずしもそうなのかどうかはよくわからない。で,この巨視的物体の速度は,さきほどの仮定がよければ,台風の中心の移動速度とほぼ等しくなる。このとき台風の角運動量はどうなるかと思って検索してみると,琉球大学の伊藤耕介さんの数値天気予報研究室が最初のほうに現れた。角運動量に関する記述もある。

2019年6月15日土曜日

Discipline-Based Education Research

日本物理教育学会の理事会で,Discipline-Based Education Research:DBERという言葉をはじめてきいた。PER(Physics Education Research)=物理教育研究についても,何年か前に聞いたときに単なる普通名詞だと誤解して査読意見をつけたくらいによくわかっていない自分なのであった。

発端は,今年2019年の3月2日に東北大学で開催された国際シンポジウム「ノーベル賞受賞者が主導した科学・技術教育の科学的変革-カール・ワイマン博士とインペリアル・カレッジ・ロンドンの取組-」だ。あの(冨田先生のお友達で橋下時代に活躍された)大森不二雄さんが仕掛け人なのか・・・orz。笹尾真実子さんが日本学術会議の物理教育委員会の物理教育研究分科会の委員長である。そんなわけで,今年の9月末に学術会議が主催する学術フォーラムで物理教育改革をテーマをした集まりが開かれる予定だそうだ。

Discipline-Based Education Researchとは,主にSTEM教育領域の個々の学術分野の知識や世界観に基づいた視点による学習や教育の方法を研究するものである。具体的には,
天文学   Astronomy education research (AER)
生物学   Biology education research (BER)
化学    Chemistry education research (CER)
計算機科学 Computer science education research (CSER)
工学    Engineering education research (EER)
地球科学  Geoscience education research (GER)
数学    Mathematics education research (MER)
物理学   Physics education research (PER)
などの集合であり,PER(物理教育研究)がもっとも早くから研究されているようだ。

PER(物理教育研究)でいえば,物理学−科学哲学−物理学史−認知心理学−教育方法学−&(社会学−言語学−人類学−倫理学)などが関係する学際的な研究分野が物理教育研究になる。

STEM教育の文脈あるいは教育方法学的な立場では,DBERの共通項を議論することに価値があるだろうが,要点は個別の学問領域の固有の関心やアプローチに基づく「学問分野別教育研究」の推進が必要であるということ。

関連した情報はまだそれほど多くない。
[1]Discipline-Based Education Research(Wikipedia:en)
[2]Physics Education Research (Wikipedia:en)
[3]Discipline-Based Education Research: Understanding and Improving Learning in Undergraduate Science and Engineering(Singer, Nielsen and Schweingruber,2012)
[4]研究領域としての物理教育(新田英雄,2016)
[5]物理教育研究 PER・学問領域に根ざした教育研究 DBER とは何か?(村田隆紀・笠潤平・覧具博義,2017)
[6]日米におけるアクティブ・ラーニング論の成立と展開(西岡加名恵,2017)
[7]米国STEM教育におけるDBER(discipline-based education research)の勃興 ―日本の大学教育への示唆を求めて―(大森不二雄・斉藤準,2018)

2019年5月1日水曜日

弘学[ぐがく]

しばらく前にTwitter上で,@gugakuken(羽根弘)と@Yh_Taguchi(田口善弘)の論争があったのを発見した。

田口善弘 @Yh_Taguchi
「科学への投資の成果の享受者は国民であり,人類です。説明責任は科学者にはありません。科学者に投資するかどうかは社会が決めることなので。科学への投資の受益者が科学者だと誤解するからそういう発想になるのだと思いますが、僕は間違っていると考えています」
「その部分は適当な翻訳者が雇用されて担うべきだと考えます。科学者が素人の説明のために時間を割くのは無駄だと思います。難しいことをわかりやすく説明すること自他、特殊技能であり、そのための専門家が要請されて担うのが合理的だと考えています。科学者が片手間にできる作業ではありません」

羽根弘 @gugakuken
「科学はもちろん国民、人類に利益をもたらすものでもありますが、同時に不利益をもたらすこともあります。その功罪を以て『影響力』と表現しています。また、その科学へ投資するかどうかを社会=市民が判断するために、科学者の側の説明責任が必要となるのです」
「その『科学者』と「素人」改め『市民』との対話を仲介し支援する役割、異分野コミュニケーションの専門家の役割は『弘学者』が担うことができると私は考えています。しかし、人が人に成り代われるわけではありません。両者に対話する意志がないと、弘学者には何もできません」


制度化された科学の社会的な意味と,予算配分や説明責任の在り方は,なかなか重い問題なので,ここではこれ以上ふれない。

@gugakukenが提起している「弘学」のコンセプトはなんだか興味深い(小宮山宏の知の構造化に感じるのと同じように眉唾ものではないかと恐る恐る近づきつつ)。ただ,彼の持っている個別の科学についての認識や,彼の怪しい(観念論的な)独自理論にはまったく同意できない。

[注1]そういえば,小宮山宏は「超教育協会」の会長に祭り上げられているのだった。

2018年12月22日土曜日

冬至

 冬至(Winter Solstice 今日までこんな単語は知らなかった)は,一年の内で最も昼の短い日。例えば,きょうこのあたりでは,日の出が7:00,日の入は16:50なので,昼は9時間50分(41%),夜は14時間10分(59%)である。冬至や夏至の前後では一日ずれると昼夜の時間が1分(0.07%)ほど変化するものと思われる。

 冬至の定義をもう少し丁寧に調べようとすると,次のように自分があまり正確には分かっていない言葉(概念)の連鎖が得られた。冬至(冬至日)→冬至点(春分点・夏至点・秋分点)→黄経270度→黄道(天頂・天底・白道)→ 定記法(二十四節気・恒気法)。でもWikipediaの網を用いることで,ある程度までは適当な精度で理解することができるように思える。

 Wikipediaに対しては,かなり有益,やや有益,中立,やや有害(あまり信用できない),かなり有害(まったく信用できない)という意見がある。利用する場面や対象によって,この価値判断スペクトルが虹色に変化する。教育や研究の場では「知識の安全性」を担保する必要があるので,否定的な考えのほうが多いかもしれない。

 「理解の精度」という概念を導入して,知識の信頼性と有用性を場面ごとに尺度変換して考えることはできないだろうか。ある知識のまわりに連結するネットワークの密度が高ければ高いほど,相互信頼性が増して理解の精度が高くなるということを定量的に扱うことができないかということ。次の夏至までの宿題にしよう(夏への扉)。

「行く水のゆくにまかせて冬至かな」(田川鳳朗 1762-1845)