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2020年1月30日木曜日

コンピューテーショナル・シンキング(1)

コンピューテーショナル・シンキングが何であるのかの説明は,2017年のイランのシャリフ大学のタベシュの論文(Computational Thinking: A 21st Century Skill)が分かりやすい。

コンピューテーショナル・シンキングのルーツを辿ってみると,1つは,シーモア・パパート(1928-2016)の書籍 マインドストーム(1980)になる。LEGO Mindstormsの方ではない。その中に,はじめて,Computational Thinking というフレーズが一度だけ登場している。

タベシュは次のように書いている。
 パパートは,コンピューテーショナル・シンキング(計算思考)とデジタル教育学を,ピアジェが始めた教育の現代的アプローチに結び付けた。
 ピアジェは、構成主義として知られる学習理論の先駆者としてよく知られている発達心理学者である。簡単にいうと,彼は,学習者の経験と既存の知識の相互作用が,学習者の心に新しい知識を構築するとした。
 パパートは,構成主義の理論を発展させ,学習者が「意味のある産物を構築する」ことに取り組んでいるときに学習が強化されるという概念を追加した。
 我々は,パパートの問題解決法に基づいて計算思考を検討する。つまり,計算思考は,批判的思考と計算能力を組み合わせて,現実の問題に対する革新的なソリューションの基盤とするものだ。
 計算思考には,次の4段階の問題解決過程が含まれる。
・分解:問題を分析し,より小さい部分に分割する。
・パターン認識:データのパターン,傾向,規則性を観察する。
・抽象化:認知されたパターンを生成する基本原則を特定する。
・アルゴリズム設計:問題解決のための段階的な手順を開発する。
 実験的な問題解決の「遊び場」をつくって,これに各段階を接続する。
このモデルでは,遊び場は簡単にアクセスできる場所であり,学習者はフロー,パターン,対称性,パリティ,不変量,再帰などを探しながら,単純または類似のケースでモデリングやバックトラックすることにより,数値的,幾何学的および手続き的に実験できる。遊び場は,強制的な学びでなく認知的な学習を促進する環境を与える。

2020年1月15日水曜日

基礎自治体 教育ICT指数サーチ

岐阜聖徳学園大学芳賀高洋さんが河合琢也さんのデータをもとにして,基礎自治体 教育ICT指数サーチというサイトを作った。久しぶりの大ヒットになりそうだ。芳賀さんらしいきめ細かい作り込みがうれしいし,実用的な価値も高い。さっそく奈良県教育研究所奈良県域GIGAスクール構想の実現のページからリンクされている。

学校での大量のコンピュータ管理は負荷が高すぎるので,一人一台の方向性はよいとしても,なんとか個人所有の端末へスライドさせながら軟着陸する方法を考えるのがよいと思う。発展途上国化しつつある日本ではなかなかそううまくはいかないのだろう。電子教科書談義が燃えていた10年前ならば,民主党政権のこども手当て利用案だとどうかとか夢想していたのだけれど。

P. S. 芳賀さんといえば,先日,NHKに千葉大学の三宅健次先生が映っていた。また,大学評価・学位授与機構の土屋俊先生は放送大学の記号論理学の最終回の4名対談にて例の調子で暴れており,思わず爆笑してしまった。

P. P. S. その記号論理学の授業の最終回では,対話的タブローチェッカーのタブ朗が宣伝されていた。

2019年12月4日水曜日

PISA2018

OECD生徒の学習到達度調査(PISA)は3年ごとに本調査が実施されている。このほど,PISA2018の結果が公表された。利害関係者の皆様は,戦々恐々としてこの餌に飛びつこうとしている。長期トレンドは平坦でありあまり変わっていないというのが結論のはずだが,変化分を強調して見たい向きからすれば,読解力が落ちたというのがセールスポイントになるのだろう。

読解力に関しては,6段階のレベルの上位層は前回とあまり変わらないが,中位層が減って,下位層が増えているようだ。「評価し,熟考する」能力については、2009年調査結果と比較すると,平均得点が低下しており,特に,2018 年調査から追加された「質と信ぴょう性を評価する」「矛盾を見つけて対処する」の正答率が低かった。とのことであり,そりゃあ桜を見る会を巡るこの間のグダグダな日本のマスコミと政府を見ていれば宜なるかなだろう。

一部コンピュータ型調査であることと学校におけるコンピュータ使用率の低さと絡めた議論にしたがる勢力もありそうだが,それはそれ,これはこれ。むしろスマートフォンによる断片的コミュニケーションや離散的情報取得に完全に適応しているネイティブICT人類についての分析の方が必要なのではないだろうか。

2019年11月27日水曜日

児童生徒1人1台PC

11月13日の経済財政諮問会議で,経済対策(未来投資)として義務教育の児童生徒1人1台のPCを配備するという考えが示された。経済再生担当大臣の西村康稔は,1995年から1997年にかけて通産省からの出向で石川県の商工課長を務めていた。そのころ父が亡くなり,葬儀後の挨拶で県庁もまわった際に名刺だけを置いてきた。西村は2003年に衆議院議員になったが,その前後からしばらく後援会からの案内が届いていたことがあった。選挙区は離れているのであまり効果はないと思うのだが,とりあえず関西圏なので。

さて,児童生徒1人1台PCに話を戻す。これが,小学校5年生から中学3年生までとなると,小学校 5, 6 年が 213万人程度,中学校1, 2, 3 年が 322万人なので,合計540万人。現在あるPCの普及率は 5.4 人に1台なので,人数として現有のもので必要数の 19% 程度がカバーされているとするなら,540万 × 81%で 440万台新たに必要になる(現有機器がデスクトップならばもっと必要かもしれない)。1台10万円として,4400億円だ(いつまでに実行するのだろう?)。その後,更新を続けるとすれば,毎年数百億円が必要になる。で,これを学校で管理できるのだろうか。活用できるのだろうか。どこかでBOYDにスライドできるのだろうか。謎は深まるが,あまりまともな制度設計がされることは期待できないように思う。

P. S. 読売新聞によると,2022年までに小5〜中3,2024年までに小1〜小4という説もあるようだ。

P. P. S. 12/3 PISA2018結果発表を前に,日経新聞によると2023年が目標年度であり,5000億円を児童生徒1人1台のPCまたはタブレットにつっこむそうだ。初年度は1500億円とか。南無阿弥陀仏。

2019年10月25日金曜日

量子超越性

先日の日本経済新聞の1面トップ記事でも取り上げられたのが,googleによる初の量子超越性の実験的証明にかかわるNature論文。論文の査読には Scott Aaronson や 藤井啓介さんも関わっている。今日(10/25)の日経朝刊も前のめりになっていた。量子計算の専門家のコメントもなく,いきなり応用と暗号化リスクの話に持ち込んでいる。NHKも同様。これが典型的な日本のメディアの反応だ。まあ,マスメディアというのは本質的にそういうものなのかもしれない。

【タイトル】
プログラム可能な超伝導素子を用いた量子超越性
Quantum spremacy using a programmable superconducting processor
【出典】
23 October 2019 Nature 574, 505-519 (2019)
【著者】
Frank Arute, Kunal Arya, Ryan Babbush, Dave Bacon, Joseph C. Bardin, Rami Barends, Rupak Biswas, Sergio Boixo, Fernando G. S. L. Brandao, David A. Buell, Brian Burkett, Yu Chen, Zijun Chen, Ben Chiaro, Roberto Collins, William Courtney, Andrew Dunsworth, Edward Farhi, Brooks Foxen, Austin Fowler, Craig Gidney, Marissa Giustina, Rob Graff, Keith Guerin, Steve Habegger, Matthew P. Harrigan, Michael J. Hartmann, Alan Ho, Markus Hoffmann, Trent Huang, Travis S. Humble, Sergei V. Isakov, Evan Jeffrey, Zhang Jiang, Dvir Kafri, Kostyantyn Kechedzhi, Julian Kelly, Paul V. Klimov, Sergey Knysh, Alexander Korotkov, Fedor Kostritsa, David Landhuis, Mike Lindmark, Erik Lucero, Dmitry Lyakh, Salvatore Mandrà, Jarrod R. McClean, Matthew McEwen, Anthony Megrant, Xiao Mi, Kristel Michielsen, Masoud Mohseni, Josh Mutus, Ofer Naaman, Matthew Neeley, Charles Neill, Murphy Yuezhen Niu, Eric Ostby, Andre Petukhov, John C. Platt, Chris Quintana, Eleanor G. Rieffel, Pedram Roushan, Nicholas C. Rubin, Daniel Sank, Kevin J. Satzinger, Vadim Smelyanskiy, Kevin J. Sung, Matthew D. Trevithick, Amit Vainsencher, Benjamin Villalonga, Theodore White, Z. Jamie Yao, Ping Yeh, Adam Zalcman, Hartmut Neven & John M. Martinis
【概要−拙訳】
 量子コンピュータへの期待は,ある種の計算が従来のコンピュータより指数関数的に速く実行できるかもしれないというところにある。根本的な挑戦は指数関数的に大きな計算空間で量子アルゴリズムを走らせることができる高信頼プロセッサをつくることである。
 この論文で我々は2^53ビット(10^16ビット)の計算空間に対応する53量子ビットの量子状態を作れるプログラム可能な超伝導キュービット素子について報告する。
 反復された実験の測定は確率分布を与え,それは古典的なシミュレーションでも確認された。我々のシカモアプロセッサは1つの量子回路を100万回動かして1つのインスタンスをとり出すのに200秒かかった。これは,従来型のスーパーコンピュータが1万年かけて計算する仕事に匹敵するものである。
 すべての既知のアルゴリズムに対するこの量子コンピュータの劇的な高速化は,特定の計算において量子超越性を実験的に実証したものであり,予想されていた計算パラダイムの転換の先駆けとなるものである。

[1]グーグルが主張する「量子超越性の実証」にIBMが公然と反論した理由(Wired.jp)
[2]Googleが量子超越を達成−新たな時代の幕開けへ(Qmedia)
[3]量子コンピューティングの次のステップ:コンピュータサイエンスの役割(Qmedia)
[4]Quantum supremacy: the gloves are off(The Blog of Scott Aaronson)


2019年6月8日土曜日

アップルと私

なんだかこの40年間ずっと影響・翻弄され続けてきたような・・・

1980年代初頭,私はPC-9801ユーザで研究室のコンピュータもPC-9801シリーズ(まわりを見回してもみんなそうだった)。ところが,1988年に大阪教育大学に40台のMacintoshII (Mathematica, Fortranつき)+ LaserWriterが導入されたのをきっかけとして,マックユーザに転向してしまった(PC-9801RAくらいまではフォローしていた・・・)。

最初にMacintoshを見たのは日本橋の上新電機の1階だった。PC-9801本体+8087プロセッサが30万円の時代に,小さなモノクロディスプレイ一体型のMacintoshPlusが60万円以上していた。これはコストパフォーマンスが悪いと思い,その後近づかないようにしていた。それでも何か気になって,Mac+(1986-)やMacLife(1987-)などの雑誌を買い始めたところに,各国立大学へ貿易黒字対策のための外国製コンピュータ導入の話が降ってわいた。

いまから思えば,これが日米貿易戦争の端緒であり,半導体産業やコンピュータ産業の凋落の第一歩であったように思う。この米国の作戦に自ら進んで飛び込んで成長力を失った日本は,さらに竹中マジックで骨の髄まで外資にしゃぶられる今日の体たらくになるのであった。当時はバブルとも重なって毎週のようにDRAM技術の革新が報じられ,日本の半導体は少なくとも量的には完全無敵の状態に見えていたにもかかわらず。

さて,大学にMacintoshIIが導入されてからは,ジョブズのいないアップルの業績は下り坂で,その方針も混迷を極めた。日本経済新聞は何かある度にこれでもかというようにアップル叩きに勤しんでいた。その後の手のひら返しをみて,つくづくジャーナリズムにいやけがさすのであった。

なにやかやいっても,おおむねアップルの動きに追随してきたつもりだった。ところがApple Watchを見送ったあたりから,様々な技術や製品についていけなくなった。アーリーアダプターとしてiPhoneを卒業生らに見せびらかしていた時代がなつかしい。

P. S. 池田分校の新しい情報科学専攻に1教室分のMacintoshIIが設置され,ここでMathemacaの授業を1コマ持っていた。毎週朝早く到着して,全台手作業でDisinfectantでウイルス除去をするのが私の仕事だった。

年代 事項    製品      私は       
1976 創業 Apple I 大学院進学
1977 アップルコンピュータ設立 Apple II
1978
1979 Lisaプロジェクト
1979 Macintoshプロジェクト
1981
1982 大阪教育大学
1983
1984 Macintosh PC-9801導入
1985 ジョブズ追放→NeXT
1986
1987 Newtonプロジェクト HyperCard
1988 MacintoshII×40台
1989 MacintoshIIfx導入
1990 (NeXTstation)
1991
1992 Newton MP NeXTstation導入
1993
1994 PowerMacintosh PowerBookDuo270導入
1995
1996 NeXT買収
1997 ジョブズ復帰 漢字Talk7 PowerBook2400購入
1998 iMac/AppleWorks
1999 iBook
2000
2001 アップルストア MacOSX/iPod
2002 iPod購入
2003 iTunes Music Store
2004
2005 スタンフォード卒業式
2006 Apple TV
2007 iPhone
2008 iPhone購入
2009
2010 iBookstore iPad
2011 ジョブズ死去
2012 MacBookPro購入
2013
2014 Apple Pay開始
2015 Apple Watch
2016
2017 ApplePark
2018 定年退職
2019 iPadPro購入
2020

2019年3月12日火曜日

World Wide Web

本日2019年3月12日のグーグルは,ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)誕生30周年のデザインになっていた。ワールド・ワイド・ウェブの歴史が平成の歴史とほぼ重なっているのか。1989年の3月12日に欧州原子核研究機構(CERN=Conseil Europeen pour la Recherche Nucleaire)ティム・バーナーズ=リーが,情報管理システムの提案をしたのが出発点となっている。1990年の12月には,NeXTコンピュータ上にシステムを構築し,1991年には,世界最初のウェブサイト http://info.cern.ch/  が公開されている。

その2年後の1993年に,画像とテキストが統合されたブラウザ,NCSAモザイクが登場する。そのシステムを開発したマーク・アンドリーセンはNetscape社を立ち上げ,しばらくは,ネットスケープ・ナビゲータが標準ブラウザの位置を占めていた。まもなく,それはMicrosoftのインターネット・エクスプローラに取って代わられてしまった。

ウェブサーバのソフトとしては,ティム・バーナーズ=リーによって最初に作られたCERN-httpd,NCSAモザイクに対応した NCSA HTTPdなどがあった。20年ほど前に,最初にサーバにインストールしたのはNCSA HTTPdだったが,これが,Apache HTTP Serverに引き継がれたので切り替えた。10年前ごろには忙しくなったのか歳を取ったせいか,サーバーのお守りもできなくなってしまった。

このあたりの歴史は,TheWebKANZAKIのウェブブラウザ小史2001に詳しい。

写真:NCSA MOSAIC beta(ウェブアーカイブから

2019年3月11日月曜日

第二種ソフトウェア危機とマクロユーザサービス

標題の文書が発掘された。たぶん,1993年前後のものではないかと思われる。大阪大学大型計算機センターの何かによせて寄稿することを想定した文書だが(利用相談員の自己紹介かな),どこかの段階でボツになったのかもしれない。とりあえず,参考のためにテキストを起こして再現してみる。第二種というのは,研究テーマだった原子核の弱い相互作用に存在するがどうかが問題となっていたGパリティ非保存の「第二種カレント」にかけているのだが,そんなもの誰にも分からない。

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第二種ソフトウェア危機とマクロユーザサービス
−ユーザのオタク化による情報環境破壊の進行と対策−
大阪教育大学 物理学教室 越桐國雄 (メールアドレス略)

 自己紹介: 私の専門分野は原子核理論(電弱相互作用と核構造)です。センターのACOSをTSSで使い始めたのは1980年ごろで,それまでは阪大核物理研究センターのTOSBACを使っていました。最近は主にワークステーションを使っています。スーパーコンピュータでUNIXが使えれば,また変わるかもしれません。相談分野は次のとおりです。
機種:ACOS,FACOM,NeXTstation,SPARCstation,Macintosh,PC-9801,FM-TOWNS.言語:FORTRAN,Mathematica.
(#ただ,どれもほとんどあてになりませんのでよろしく。)

 大阪教育大の紹介: 大教大では柏原市への移転統合を機会に,情報処理センターが新たに設置されました。ホストはFACOM-M770で,ワークステーション30台,パーソナルコンピュータ50台等の構成です。各研究室からはTCP/IPで学内LANにアクセスします。N1ネットワークへは64kbpsの専用回線で接続し,SINETによる学外へのIP接続も予定しています。しかしあまりの急激な変化(これまではホスト無し,TSS端末数台とMacII40台等があっただけ)に戸惑っているような次第です。(#ほんとにもうたいへんなのです。)

 センターへの希望: ダウンサイジングとネットワークング及びフリーソフトウェアの浸透により,スタッフのそろわない中小規模大学や情報系以外の研究室では,ユーザのシステム管理やソフトウェア管理の負担が年々重くなっています。また,ネットワークの発展に伴うコンピュータのメディア化が我々の情報処理能力の限界を越えて進もうとしています(ニュースとメールを読み,ファイル転送してmakeすると1日が終わってしまう!?)。こうしてあふれた情報ゴミがユーザのオタク化を促進しています。いわゆる「ソフトウェア危機」=ソフトウェア生産場面での需給ギャップに対して,これらはソフトウェア消費場面での需給ギャップといえるかもしれません。これを,「第二種ソフトウェア危機」と呼ぶことにします。第二種ソフトウェア危機は人間の基本的な欲求に密接に関係しているため,より本質的で深刻です。これを回避するための一助として,研究室,教室あるいは小規模大学のユーザグループ(=マクロユーザ)に対する適切な情報提供,事例紹介や講習等のサポートをセンターにお願いしたいと考えています。(#でも難しいですよね。中途半端な結論で終わってしまった・・・)
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(注) FM-TOWNSは,日本で最初に発売されたCD-ROMドライブ付きパソコンだった。情報処理センターの副センター長だった定金晃三先生らと,これいいよね(デジタル教材メディア活用のはしりだぁ),とかいいながらネットワーク整備予算を使って一教室分導入したものである。そのうちビジネス用のPCにもCD-ROMがつくのが当たり前になってしまった。そして,これからはCD-ROMドライブが付かないのものが普通になるようだ。


2019年3月2日土曜日

電子計算機と人間

SSS 現代の科学シリーズというのが,1967年から1980年にかけて,河出書房新社から出版されていた。ちょうど中学の終わりから高校にかけて何冊かそろえていた。講談社のブルーバックスよりも少し上といった感じのシリーズである。最初に買ったのが,アイザック・アシモフの「化学の歴史」であり,中学の時に理科クラブで化学に取り組んでいたことに関係があるかもしれない。この本は今では,ちくま学芸文庫に収録されていているので入手しやすい。

もう一冊よく憶えているのがドナルド・フィンクの「電子計算機と人間」である。あと何冊かあったような気がするが,タイトルをみてもどれもピンとこないのである。もしかすると2冊だけしか持っていなかったのかもしれない。

「電子計算機と人間」は,石田晴久先生が最初に手がけられた本のようである。情報処理 Vol.50 No.7(2009年)に「あの時代」に想いをはせて−証言者たちからのメッセージ−として,2009年の3月に亡くなられた石田晴久の追悼特集が載っている。その中に,元bit誌編集長の小山透さんが石田先生の著述物の一覧を整理されている。その第1号が,1969年に出版された,高橋秀俊先生との共訳によるこの本なのだった。

写真:電子計算機と人間(アマゾンより引用)

金沢泉丘高等学校の理数科の1年でプログラミングのさわりを学ぼうとしていた自分にとっては,まさに時宜を得た読書体験であった。ところで,この本には,FORTRANのプログラミングで円周率を求めるという話が延々と書いてあったのだが,どうして円周率が求まるのかがさっぱりわからず,狐につままれたような思いが残っているのだった。いったい,どんなアルゴリズムを用いようとしていたのだろうか。

円周率の計算に続く)

2019年2月22日金曜日

NeXTの話

1985年にアップルから追いやられたスティーブ・ジョブズが立ち上げたのが,NeXTである。1990年の6月にMITで,素粒子と原子核(の中間領域)の国際会議PANIC XIIが開催された。森田正人先生に連れられて,一年先輩の佐藤透さんといっしょに,ワシントン経由でボストンに着いた。

会場のMITでは,コンピュータルームが参加者のオープン利用に供されていた。そこにあったのが,初代のNeXT Cubeであった。1990年の3月に天王寺分校のデータステーションにS4/330が導入されて,ワークステーションにはなじんでおり,NeXTの感触を確かめることができた。Mathematicaも使えてこれはすごいということで,翌1991年に,大阪教育大学物理1研の予算を工面してもらって,NeXT Station(CPU 68040 25Hz, 主記憶 8MB, ディスク120MB?)を1台購入することができた。天王寺分校は移転を控えてバタバタしていたので,そのどさくさである。

写真:NeXTstation(Wikipediaより)

天王寺分校のデータステーションでは,1990年にサンのワークステーションS/4-330を導入すると同時に室内にはイーサネット(10BASE5 イエローケーブル)を張って室内の端末等と接続していた。垣本さんと相談して,学内ネットワークの練習のためにその一部を延長して,同じ2階で2-30m離れた私の研究室までシン・イーサネット(10BASE2)の同軸ケーブルを引き回した(ケーブルは日本橋で自費で調達し,コネクタは垣本さんにもらったのだった)。彼は技術教育専攻の出身で,ハンダ付けのプロだったので,コネクタ部分はお願いして作ってもらった。

これにより,晴れて(ヤミか?),研究室のNeXT Stationはインターネットにつながることになった。次の年の1992年にはデータステーションは情報処理センターとして教養学科とともに柏原キャンパスに移転し,引き続いて,我々教員養成課程も1993年から新キャンパスでの生活が始まった(柏原キャンパスでは,各研究室への情報コンセントを整備していた)。

若くして亡くなられた山口英(阪大基礎工情報科学)さんが,1990年から1991年にかけて情報処理教育センター(豊中)の助手をされていた。そのとき,阪大の情報教育用のシステムとしてNeXT stationを400台導入するというので,豊中地区に行ったついでに旧豊中データステーションに立ち寄り,資料をもらうことができた。自分の記憶の中では,気軽に資料をくれた当時の山口さんはヒゲを生やしていたが,すずきひろのぶ氏と混線しているのかもしれない。

2019年2月21日木曜日

スーパーコンピュータ登場前夜

大阪大学大型計算機センターニュースセンター25周年のあゆみ:出口弘)によると,センターシステムは1980年代の前後には次のように変遷している。我々がRCNPから大型計算機センターに乗換え始めたのは,1980年に入出力棟が新設されたころからである。

1969.05 大型計算機センター開設
1976.09  ACOS700導入
1977.12  ACOS800導入
1978.10 ACOS900導入
1979.05 センター設置10周年
1980.03 入出力棟新設
1981.12 ACOS1000導入
1982.05 ACOS1000増設・IAPサービス開始・FORTRAN77
1985.01 HFPサービス開始
1986.06 SX-1サービス開始
1987.04 学術情報ネットワーク・大学間ネットワーク
1987.11 ACOS2020サービス開始
1988.01 SX-2Nサービス開始
1993.02 SX-3Rサービス開始
1994,01 ACOS3900サービス開始
1994.05 センター設置25周年
2019.01 大型計算機センター法制化50周年(記念シンポジウムのページが保護中...orz)

1970年代の半ばに,CRAY-1が開発されたのに続いて,国産の大型汎用機メーカーがスーパーコンピュータの開発を進めていた。日本電気の開発したベクトル型スーパーコンピュータのSXシリーズが登場する前,汎用機であるACOS1000に統合アレイプロセッサ(IAP)とよばれるベクトル計算機構が導入されて,1982年からサービスが始まった。ちょうど,大阪教育大学に就職したときで,天王寺のデータステーションから阪大大型計算機センターのTSS利用が可能になったころである。

1983年ごろの研究ノートをみると,FORTRAN66からFORTRAN77へのプログラム書き換えや,ACOS1000のTSSのジョブ処理手順への変更などで四苦八苦している。FORTANのコンパイル時の最適化オプションで実行時間が1/3になり,IAPオプションでさらにその1/2になるというのが,最も効果のある場合の例だった。

1985年には,ACOS1000のバックエンドシステムとして高速FORTRANプロセッサ(HFP)が導入され,ここでもIAPが使えた。これが,SX-1の導入イメージのための練習用システムとなっていたようだ。翌1986年にはSX-1が使えるようになった。

1986年に核物理センターの計算費をもらって,大型計算機センターでSX-1を利用した話(スーパーコンピュータと原子核殻模型計算 1987)は,Juliaでパズル(5)で紹介したとおりである。

2019年2月20日水曜日

RCNPの計算機

原子核理論を専門としていたので,1976年に大学院に入ると電子計算機を使って研究を進めることになる。当時は物理分野で電子計算機を縦横無尽に使うのは,X線結晶解析と原子核物理というのが相場だった。1950年代のサイエンスの状況をイメージすると,DNAと核エネルギーなので,そんなことになるのだろう。

さて,大阪大学の全国共同利用施設のひとつとして1971年に発足した核物理研究センター (RCNP)は,AVFサイクロトロンを備えた原子核の実験施設であり,阪大の吹田地区の北端に位置していた。東大の原子核研究所や理化学研究所と並び,西の原子核実験物理の拠点として位置づけられていた。歴史的経緯を考えると納得できるものではある。

核物理センターを正面からみて左手が研究棟でスタッフの研究室,会議室や事務室が入っており,右手が実験棟(サイクロトロン棟)になっていた。実験棟の2Fに計算機室やデバッグ室が設けられていた。当時はTSSではなく,オープンバッチ処理なので,計算するためには豊中地区からここまで足を運ばなければならない。

設置されていたのは,東芝の中型の汎用計算機(TOSBAC 5600)であった。実験グループのデータ解析を行うのが主目的であるが,共同利用を進めるために,原子核理論グループにもマシンタイムが無料で開放されていた。理論屋では,基礎工学部数理教室の上田保先生(核力,少数多体系),澤田達郎先生(少数多体系)や,村岡グループの養老憲二さん(殻模型),松岡和夫さん(核反応),そして森田研の我々がよく出入りしていた。実験グループだと当時RCNPの助手だった藤原守さんくらいしか記憶にない。

キーパンチャーはIBMのもので,デバッグ室の棚にカードデックの箱を置いていた。冷房の効いた主機室に入ると空調の音がうるさく,自分のフォートランカードの束にコントロールカードを重ねて,カードリーダーに読み込ませる。しばらく待って結果はラインプリンタに出力される。うるさかったのは空調のせいだけではなかったかもしれない。ときどき,ラインプリンタの紙送りが詰まると自分で紙をセットし直す。

豊中と吹田の往復にはバスの学内便を使うことが多かったが,天気が良ければ,原付で中央環状線を疾走したりした。まだ,ヘルメットが義務化されていない時代である。制限速度30kmのところを50km近く出して白バイに捕まったことが一度ある。よく事故らずに無事に過ごせたものだと思う。

1997年1月からは,阪大大型計算機センターと阪大レーザー核融合研究センターと核物理研究センターの大型計算機は統合され,ベクトル型パラレル計算機 SX-4 として共同運用されることになり,現在のSX-ACEに至っている。

写真:RCNP全景 (RCNP写真ギャラリーより)

2019年2月19日火曜日

大阪大学大型計算機センター(3)

大阪大学大型計算機センター(2)の続き)

我々がTSSによる大型計算機センターの利用をはじめた1980年前後は,ちょうどマイコン=パーソナルコンピュータが登場して普及が始まろうとしている時期と重なっている。

阪大豊中地区のデータステーションに設置されていたTSSの端末は,最初の内はドットプリンターにキーボードがついたものであった(ディスプレイはまだない)。そのうちバドミントンプリンタとよばれる,少しだけしゃれた端末も増えたが速度は速くはなかった。中には,記号が並んだAPLキーボードの端末もあったが,使ってはいない。


写真:TSS端末 Silent-700 (Wikipediaより) 。これではないが,こんな雰囲気のもの

プリンタ型のTSS端末はテキサス・インスツルメンツのものが有名で,それかどうかはわからないが,1200bpsの高速端末が研究室にも導入された。まもなく,アンリツのグリーンCRTディスプレイによるスクリーン・エディタ端末も入ったような気がする。

そうこうしているうちに,日本電気(NEC)からPC-8001,PC-8801,PC-9801とパーソナルコンピュータのシリーズが発売され,BASICや機械語で動く自作ターミナルのブームがやってくる。大型計算機センターニュースにはこうした記事が頻繁に登場していた。専用の端末に比べれば,ずっと安い価格で,かつそれなりに高機能のTSS端末が誰にでも仕える時代になったのだ。大坪先生もアセンブリ言語を駆使して,ターミナルソフトを開発されており,阪大大型計算機センターニュースの記事(1)(2)になっている。

大阪教育大学のデータステーションにも,阪大大型計算機センターの専用TSS端末が4台入り,これに加えて,PC8801が端末として導入された。N88BASICの端末エミュレータプログラムがあちこちで公開されていたので,自分でもこれを参考に適当にカスタマイズして使っていた。

P. S. 大阪教育大学のデータステーションの教務員の加藤清さん(垣本徹さんの前任者)が作ったN88BASICのプログラムを参考にしていたのではないか。これも,阪大大型計算機センターの藤井博さんの記事(1982)がオリジナルかもしれない。加藤さんはその後,岐阜経済大学から大阪工業大学に移られたようだ。その後一度だけどこかでお会いした記憶がある。


2019年2月18日月曜日

大阪大学大型計算機センター(2)

大阪大学大型計算機センター(1)からの続き)

1975年の理学部物理4回生の数値計算法(村岡光男先生)の授業は,FORTRANによるプログラミング演習であった。豊中地区のデータステーションにパンチカードを預けると,学内便によって吹田地区の大型計算機センターに運ばれ,計算結果のプリントアウトが翌日学内便で豊中地区に戻ってきた。ということで,2日かけてようやく1ジョブが実行されるのだ。これを繰り返してFORTRANのブログラムをデバッグしていた。


写真:カード穿孔機(上)とパンチカード(下)
( Wikipedia のキーパンチ より)

さて,1969年に発足した阪大大型計算機センターの初代のセンター長は基礎工学部数理教室の高木修二先生で,1979年までの10年間にわたってセンター長を務められた。高木先生(1914-2006)は原子核理論(多体問題)がご専門であり,岩波講座現代物理学の基礎第10巻原子核論を執筆されている。

その高木先生がセンター長を退任される直前に,1979年からの新システムについてセンターニュースで紹介された記事(システムの拡充とシステムの更新について)がある。1979年から導入された汎用機が NECのACOS900であり,このころには大型計算機の利用は遠隔端末からのTSSが大きな割合を占めるようになった。そのタイミングで,わが研究室でもTSSによる大型計算機センターの利用を始めたのであった(大学院に入ってからは核物理研究センターの中型汎用機を無料で使っていた)。

ACOS900のスペックは,主記憶8MB,計算速度12MIPS,磁気ディスク6GBである。うーん,そのへんの子どもでも持っている現在の iPhone とは比べてはいけないが,たった40年でこれだ。そしてその有り余るコンピュータリソースがSNSによる自己顕示的な動画やネトウヨ言説空間の構築に費やされている。

阪大大型計算機センターでは,1982年からはACOS1000が,1986年からはベクトル型スーパーコンピュータのSX-1が運用されることになる。1980年代から90年代にかけて,全国の大型計算機センターが競ってベクトル型スーパーコンピュータを導入し,それに対応して,日立,富士通,日本電気の各社が開発競争していた時代が夢のようであった。

P. S. 阪大大型計算機センターでは,JUKI のカード穿孔機が設置されていた(写真はIBMのものである)。

大阪大学大型計算機センター(3)へ続く)


2019年2月17日日曜日

大阪大学大型計算機センター(1)

旧帝大には全国共同利用施設として大型計算機センターがそれぞれに設置されていた。東大では1965年から,その他の6大学では1969年から運用が開始されている。今ではこれらのセンターは,学内共同利用施設であった情報教育系のセンターと統合するなどして,全学の情報環境を提供する機構やスーパーコンピュータのファシリティに変化している。

その大型計算機センター時代の話である。大阪教育大学に着任した翌1983年にはデータステーションの運営委員となった。そのころ大阪教育大学には,京都大学と大阪大学の両大型計算機センターのリモートステーションとしてデータステーション(地区連絡所)が設置され,リモート回線で結んだミニコンでジョブ処理が行われていた(その話はまた別の機会に)。

全国の大学は,それぞれの地区の大型計算機センターを核としたブロックにわけられ,大型計算機システムやデータベースの共同利用が推進されていた。大阪大学の大型計算機センターは第6地区のセンターとして,大阪・和歌山・奈良・兵庫・岡山・香川・愛媛・高知・徳島がサービスエリアだった。そして,地区の各大学には阪大大型計算機センターの利用支援のため「プログラム指導員」が1名づつ置かれた。

この他に,阪大大型計算機センターに常駐して相談に当たるのが「プログラム相談員」だった。プログラム相談員は,週1回2時間の常駐で,利用負担金の7万円/半年の免除やマニュアルの無償提供,ジョブの優先実行などの特典があった。一方,プログラム指導員の方は,随時の対応であり(そもそも相談もそんなにないわけで),マニュアルが一定限度で無償提供された。その後,マニュアル以外のコンピュータ関係の図書を2〜3万円/年程度購入することもできるようになった。

年1回のプログラム指導員の協議会が吹田キャンパスの阪大大型計算機センターで開かれ,センターの教職員の方々と意見交換させていただいた。大中幸三郎先生や後藤米子先生などがいらっしゃった時代である。1990年代になると,大型計算機センターはネットワーク,ワークステーションやUNIXへと守備範囲を広げ,現センター長の下條真司さんの時代がやってくる。プログラム指導員や相談員では,家本修先生,武知英夫先生,藤本益美先生の名前が懐かしい。阪大で同期の平井國友さんも奈良県立医科大からこられていた。

さて,1983年までは本学の物理化学研究室の南波嘉幸先生が大阪教育大学のプログラム指導員を務めておられたが,1984年から私と交代することになった。その指導内容はFORTRANとしていたが,プログラム相談されることはほとんどなかった。生物学・生命医学分野のデータベースBIOSIS利用のためのセンターへの利用登録の話があったかどうか。1994年には,指導内容をインターネット,Mathematica,Fortranとしている。1995年には,連絡先メールアドレスを記載するようになった。1999年にプログラム指導員は利用指導員と名前を変え(コンピュータの利用の様子がすっかりかわってしまったのだった),これが最後のお勤めとなった。

その後,阪大の大型計算機センターは情報処理教育センターと統合して,2000年からサイバーメディアセンターとなり,現在に至っている。

大阪大学大型計算機センター(2)へ続く)

2019年2月16日土曜日

総合人間学部の情報科学実習(2)

総合人間学部の情報科学実習(1)からの続き)

さて,全学共通の情報学科目に対応する情報科学実習であるが(今ならば情報基礎演習[全学向]に相当),システムとしては情報処理教育センターの日立の汎用機HITAC680(大型計算機センターは富士通でした)のVOS3上のFORTRANで,川崎辰夫先生と冨田博之先生が書かれたテキストを使ったプログラミングの演習であった。

普通教室の机に埋め込んで固定されたノートブック型パソコンを端末として使うというもので(机の蓋をすると普通教室に戻る),なんだかややこしかった。実習室の確保のための苦肉の策のようだ。システム更新の後は,普通のデスクトップPC(コンピュータ端末)の並んだ実習室になった。

最初は汎用機OS上のFORTRANをTSS端末から使うという形だったものが,UNIXも使えるようになったので,UNIXのfortranでの実習に変えてもらった。最後の方は,Cでやって下さいとのことで,言語はCに変わったが,例題のレベルもつくりも,fortran実習に毛が生えた程度。ようやく電子メールも使えるようになると,受講生との連絡は楽になった。

授業中でも空いている端末は,受講していない学生さんが自由に使ってよいことになっていた。あるときその様子を見ているとIRCを使ったチャットだった。BBSは大型計算機センター時代からROMだったし(阪大大型計算機センターのBBSでは西野友年さんが活躍していた),netnewsのfjグループにもなじんでいたが,なるほどこんな時代なのかと思った。

実習室の前に端末が数台並んだ部屋(総合人間学部の情報関係の方々のたまり場?)があり,はじめのうちはここで午前中から授業の準備をさせていただいた。やがて使えなくなってしまい,普通の非常勤講師控え室でまわりの会話に耳を澄ませながらお弁当を食べていた。

1990年の末に欧州原子核機構(CERN)ティム・バーナーズ=リーが World Wide Web を開発するのだが,1993年 NCSA Mosaic の登場で爆発的に普及して今日に至る。そのできたてのMosaicが実習室の後ろの端末にインストールされていた。テキストベースのgopher/ archieは使っていたけれど,イメージが付加されるのは画期的であった。


情報科学実習でお会いした方々:

川崎辰夫先生:一度だけご挨拶してお顔を拝見したかも。2011年に80歳で亡くなられた。

冨田博之先生:お世話係なのだけれど,年に一度お会いするかどうだった。あのディラックが晩年を過ごしたフロリダ州立大学に行かれたとおしゃっていた。その後,「ケルビンの 「19世紀物理学の二つの暗雲」に関する誤解(2003)」という面白い記事を拝見することになる。

櫻川貴司さん:当時,一世を風靡していたProlog-KABAの岩波本の著者であったのでお名前は知っていた。この実習のもろもろのお世話は,基本的には櫻川さんにしていただいた。大変お忙しそうで,つかまえてシステムのパスワードを教えてもらうのに苦労した。

新出尚之さん:最初は情報処理教育センターの所属だったが,奈良女子大の助手になられ,非常勤講師として情報科学実習を担当されていた。システムトラブルの時に助けてもらった。

筒井多圭志さん:当時京大の医学部の大学院に所属されていて,櫻川さんといろいろだべっていた(ペンギンとよばれていたみたい)。後に,ソフトバンクのCTOやCS(チーフサイエンティスト:最高研究者)になるとは。ウェブの仕組み等を教えてもらった(例:チルダはどこを指しているのか)。

青木薫さん:青木さんとはちょうど入れ替わりで(青木健一さんが金沢大学に移られるタイミングだったのかな),冨田先生の打ち合わせで一度だけお目にかかった。京大の原子核理論(クラスター模型や反対称化分子動力学AMD法で有名な堀内先生の研究室)出身なので,夏の学校や学会などでちょっとすれ違ってはいたのだが,覚えてらっしゃらないようだった。

村上正行さん:私の授業のTAをつとめてくれた院生さん。総合人間学部の一期生であり,その後,京都外国語大学に就職された。教育工学や高等教育がご専門である。TAは何人かいたのだが,なぜか彼だけが記憶に残って現在に至る。

2019年2月15日金曜日

総合人間学部の情報科学実習(1)

田村松平が1967年3月に63歳で京都大学の教養部を定年退官してから,25年後に教養部は廃止され,その半年前の1992年に総合人間学部が設置された(京都大学総合人間学部,大学院人間・環境学研究科の沿革)。

ちょうどその頃に,当時の教養部,引き続き総合人間学部の非常勤講師となって,情報科学実習を担当した。1991年から1997年にかけてである。京大の非線形動力学研究室で木立さんの先輩にあたる,川崎辰夫先生や冨田博之先生が教養部の所属で,FORTRANによる情報科学実習を担当されていた。木立さんから白羽の矢を立てられた私は,毎週1回京大の教養部(後に総合人間学部)に通うことになった。

その当時,大阪教育大学も大阪府下の三分校から柏原キャンパスへの統合移転が進んでいた。私自身も1991年には,附属学校池田地区の裏手にあった大阪教育大学の池田宿舎から,奈良県天理市に引っ越した。京都までは近鉄京都線で1本である(まあ,そこから地下鉄とバスを乗り継ぐのでなかなか百万遍にはたどりつかないのだが)。

京都大学情報環境機構(2005-)を構成している学術情報メディアセンター(2002-)は,全国共同利用の京大大型計算機センター(1969-)と総合情報メディアセンター(1997-)にルーツをもつが,後者の源流が情報処理教育センター(1978-)であった。私が担当した情報科学実習は,この情報処理教育センターの第4次システムと第5次システムを使って運用されていた期間に対応する。

1991年から1997年というと,1991年の12月には大阪教育大学に情報処理センターが設置され,1992年には柏原キャンパスが開校して共通講義棟A205(現在の講義準備室)に情報処理センター管理室が開設されたころ。1996年には540㎡の情報処理センター棟(E棟)も竣工しており,ちょうど本学ではキャンパスネットワークの整備が急速に進んだ時期でもあった。

総合人間学部の情報科学実習(2)に続く)