2024年8月10日土曜日

世界の解像度(1)

シャワーを浴びている最中,ふと「世界の解像度」という言葉が浮かんだ。

そのきっかけは生成AIにある。毎日のように生成AIを使って,未知の事柄を調べたり,ブログ記事を書いたり,論文や記事の要約を行っているうちに,少しずつ違和感が沈殿してきた。

生成AIが吐き出すテキストは,システムごとに多少違いがあるものの,創作場面におけるような特別な役割付与をしない限り,いずれも無難で平板な文章が連なっている。論争を呼びそうな表現はきれいにサニタイズされている。

その結果,せっかく要約された文章が心に響かず,知りたかったテキストの意味が手のひらに乗せた砂のように認識の指の間からこぼれ落ちていく。幾度問い方を変えて調べようが知識の積み重なっていく実感には繋がらない。

この現象は,生成AIに限らず,全ての知識をいつでも即座に検索して要約できてしまうという危うい状況に依存しているのかもしれない。かつて,論文をコピーして机に積み上げただけで,その内容を理解してしまったような錯覚に捕らわれたときと同じ状況だ。


我々の経験や知識の多寡によって,世界の見え方は異なってくる。例えば,同じドラマを見ても,背景知識や自分の経験がどれだけあるかによって,その内容の伝わり方や感じ方は大きく異なるだろう。その部分を強調するのがいわゆるオタクだ。しかも,その半分は言語の精度にかかわっている。

つまり,自分の操る言葉の範囲や精度や密度によって,ある概念や感情が意識の表面に浮き上がれるかどうかが決まり,世界の見え方が異なってくるはずだ。もちろん,残りの半分は言葉ではなく,意識下に潜在している。それらは言語野以外のニューロンによる身体的な経験と技能が担うのものだろうけれど,知的活動の多くは言語を媒介としているはずだ。

その重要な鍵を担う言葉の入力や出力に生成AIが関与することで,自分自身のものの捉え方やコミュニケーションの多くの場面で薄いフィルターがかかってしまうことになる。それが繰り返されれば自分の頭で考えるときでさえ,言葉を簒奪されてしまうかもしれない。毎日生成AIを使っていて沈殿してきたモヤモヤした気分は,その結果ではないかと疑っている。


生成AIの教育利用を危惧する意見に対しての反論がある。テキストを作成する能力を生成AIに代替させることで,それが身につかなくともよい。代わりにテキストの編集能力など,よりメタな新しい力が身につくはずだというのだ。自分もその意見に賛成していたのだけれど,言葉が思考と密接に繋がっている限り,どこか危険性は完全にぬぐうことができないことに改めて気がつく。

つまり,自分の心配事は,生成AIが自分の世界の解像度を落としてしまうのではないかということなのだけれど,どうだろうか。



図:世界の解像度 by DALL-E3

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