2023年5月3日水曜日

木庭二郎

木庭二郎(1915-1973)の話題をYouTubeでみかけた

木庭二郎といえば,ディラックの量子力学の教科書の邦訳(手元の原書第4版は,高尾書店で400円のもの)で,朝永振一郎とともに名前が出てくることでお馴染だ。YouTubeの内容は,日本物理学会誌素粒子論研究の記事をまとめたものだった。

物理学会誌の方は,1996年の小特集「回想の木庭二郎」であり,南部陽一郎,伊藤大介,小谷恒之,高木修二,H. B. Nielsen,西島和彦が書いている。素粒子論研究の放談室の記事は,木庭二郎が亡くなってまもなくのもので,野上茂吉郎,早川幸男,並木美喜雄によるものだ。この他,美谷島實によるポーランド時代の木庭二郎の話題がもとになっている。

木庭二郎は朝永振一郎のもとで,朝永グループの一員として場の理論における繰り込み理論の建設に寄与し,その後は中間子の多重発生に重点を移して,KNOスケーリングを見つけることになる。

初めて知ったのが,木庭二郎の兄弟のこと。兄の木庭一郎は文芸評論家の中村光夫(1911-1988)で,弟の木庭三郎も物理学者だった。

また,阪大教養部物理の小谷恒之先生が木庭二郎の指導を受けていた。当時の阪大物理の理論は統計物理の伏見康治グループと物性物理の永宮健夫グループから成り立っていて,伏見グループの助教授が内山龍雄先生だった。今後素粒子に力を入れるということで,別の講座から借りてきた助教授ポストに木庭二郎が着任したわけだ。木庭二郎はその後,京都大学の基礎物理学研究所を経て,ポーランドに移り最後はコペンハーゲンのニールスポーア研究所で病に倒れることになった。

木庭二郎が阪大の助教授として着任していたのは,1949.8〜1954.11である。小谷先生は1951.10〜1954.1まで東京の小林理研で朝永振一郎の助手をしていた後に都立大に移っている。そのため,小谷先生が大阪で木庭二郎の指導をうけて研究していた1949年から1951年の2年間ほどだった。なお,小林理研での朝永振一郎の助手のポストは,小谷先生から森田正人先生(1954.3〜1959.4),安野愈氏(1960.4〜1964.3)へと続いた。

[1]回想の木庭二郎(日本物理学会誌第51巻8号,1996)
[2]放談室 木庭二郎氏を悼んで(素粒子論研究第48巻3号,1973)

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