2020年2月22日土曜日

昭和のプログラミング教育(2)

昭和のプログラミング教育(1)からの続き

楠先生から,北國新聞2020年2月18日の紙面コピーが送られてきた。タイトルは「昭和40〜50年代のプログラミング,最先端教育記憶つなぐ,元泉丘高教諭・楠さん 教え子から感想文収集」であった。楠先生は,93歳で,1958〜77年に泉丘高で勤務しているので,我々が高校生だった50年前には,43歳ぐらいだった。

クスリのアオキの青木桂生さんが,日本経済新聞の2016年2月22日の記事「パチ先生の教え」で,楠先生(あだながパチ)の思い出と,実家の薬屋を継ぐように諭されたことを書いている。青木さんは1942年生まれくらいなので,我々よりほぼ10歳上,楠先生が30歳で泉丘高校に着任したころの生徒だ。クスリのアオキの会社沿革には,1985年に株式会社クスリのアオキを設立したときの本社所在地は,金沢市泉野出町4丁目になっている。泉丘高校のすぐ南になる。昔はほとんど田んぼだったが,円光寺線の道路沿いには,何かあったのかもしれない。

理数科2期生の我々8組のクラス担任は,1年が松川先生,2年が楠先生,3年が物理の谷口先生だった。松川先生は幼なじみの松川隆行君の父上で,東大の理学部数学科だったと思う。寺町2丁目の電車通りに面して,横山酒店のとなりが松川金物店で,泉野小学校の1,2年のときは同級生だった松川君のうちに時々遊びに行った。担任の川村先生に指名されて,2人で毎日クラス絵日記をかかされていた。その後,雪の市立工業高校のグラウンドをころげまわって帰っていた。その転がり方を○○流だといいあっていたのだが,彼が泉丘流だといったのが,はじめて「泉丘」という言葉を知ったときだ。

松川君にはお姉さんがいて,弟共々よくできるひとだった。お姉さんもお茶の水だったのではないか。3人でダイヤモンドゲームをして,自分がこてんぱんに負けた記憶がある。松川君は東大に進みその後,建設省だかどこかの高級官僚になったと思う。しばらく前は,日本木材住宅産業協会の専務理事の足跡がある。

かつての横山酒店の向いは,今は北國銀行の支店だが,当時は協栄のパン屋があった。その間の路地を入って100mほどで寺町のおばあちゃんの家に至る。途中に大杉和人君というのがいて,彼が泉野小学校の我々の学年で最も優秀だった。卒業式の答辞も読んだ。彼も東大に進学している。泉野小学校からは,他にも赤井勇一,西田荘平,山本賢正,山田晴美など計6人が東大に,片岡稔,山田良平,平崎鉄外喜など3人が京大に進んでいる。他にも忘れている人がいるかもしれない。昭和のプログラミング教育の話にたどりつかない。

P. S. 当時の泉野小学校は,1学年150人ほど,1年から5年までは3クラス,6年ではじめて4クラスになった。野田中学校は1学年450人で10クラス。

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