2020年2月2日日曜日

コンピューテーショナル・シンキング(4)

コンピューテーショナル・シンキング(3)からの続き

パパートを源流としてウィングが口火を切った「コンピューテーショナル・シンキング(計算論的思考)」は,K-12にひろがるとともに,日本では「プログラミング的思考」と名前とその性格を変えて政策的な道具として用いられることになった。

そもそも「○○的思考は学校教育に欠かせない」という言説は,「○○力が未来の子どもたちには必要だ」というスローガンと並んで,近年の教育改革の通奏低音となり,政策推進のツールとして悪用されている。プログラミング的思考もその最先端の代表例である。

学校教育をめぐる目標設定では,常に怪しい看板がつけられはずされしながら,「子どもたちのために」,「国の将来のために」,「地球の持続可能な発展のために」という大義名分のもとに,隠れた利益誘導や思想誘導の道具として,○○的思考と○○力のオンパレードが続いている。

最近の○○的思考の○○には何が入りうるか。工学,科学,数学,論理,批判,問題解決,デザイン,なんでもいいのだが,これによって利益を得られる社会セクターの人々は,なまじ悪知恵が発達しているので,ありとあらゆる正当化の論理を繰り出している。

計算論的思考は,その定義からして,情報科学(Computer Science & Technology)の領域基盤の概観(内容・方法)に対応している。これを「読み,書き,算術」に加える21世紀の第4のリテラシーとして位置づけようとするものだ。2000年前後を境とする情報テクノロジーの発展と浸透により,その重要性が飛躍的高まった。それゆえ,あらゆる分野や階層の人々に関係するという意味で,他の○○に比べて優位性があるのは確かだと思う。

ただ,それは,これまで情報リテラシー,ICTリテラシーとよばれていたのではないか。高等学校に教科情報を導入して 20 年近く培ってきたものではないか。そこではプログラミングこそ背景に退かされていたものの,情報科学をバックボーンとして,その成果を活用する能力をいかに獲得するかが目標であったはずだ。

それが,看板を変えてまで,あらたなテコ入れの道具として化粧直しするときの名前がプログラミング思考だった。計算論的思考(この訳語も微妙なのですが)に比べれば格段と見劣りのするしょぼい目標設定になってしまってはいたが。「一つ一つの動きに対応した記号を,どのように組み合わせたらいいのか,記号の組合せをどのように改善していけば,より意図した活動に近づくのか」だと・・・あんたらなにゆうてんの・・・orz。

たぶん,この30年の日本の停滞と,機械学習,クラウド,IoTなどの進化による産業構造の本質的な変化の予感が,日本にあせりをもたらしているのだと思う。それが小学校へのプログラミング教育の導入とGIGAスクール構想(児童生徒一人一台のPC整備)へとつながった。そのビジョンの柱となる考え方をプログラミング的思考に落とし込んだところに本質的な欠陥があるような気がする。

なぜプログラミングの能力が全員に必要なのだろうか。自動車整備の能力がすべての国民に必要なのだろうか。散々議論した末に,プログラミングが柱ではなく,情報科学や情報技術によってもたらされた成果や,それを実現しているアプリケーションを組み合わせて活用することで問題解決することこそが重要だとしてきたのではなかったのか。

プログラミングを体験することが,コンピュータの活用の質を高めるために本当に必須なのだろうか。むしろ,生活や学習のあらゆる場面で,必要に応じて自由に情報デバイスを組み合わせて,文書を作成し,計算し,マルチメディア情報を処理して創造できる環境の整備とサポートの仕組みこそが必要なのではないだろうか。

マセマティカによって提供されるような,あるいはジュリア(プロセッシング)によって実現されるような柔軟性の高い情報処理環境が,すべての科学や文芸や芸術の分野で必要であり,そのための専門的な能力を養成するルートやそのための裾野の広い学びが必要であることは認めるが,それは,小学生全員にプログラミングを学ばせることとは別だと思うのだ。

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