2019年2月17日日曜日

大阪大学大型計算機センター(1)

旧帝大には全国共同利用施設として大型計算機センターがそれぞれに設置されていた。東大では1965年から,その他の6大学では1969年から運用が開始されている。今ではこれらのセンターは,学内共同利用施設であった情報教育系のセンターと統合するなどして,全学の情報環境を提供する機構やスーパーコンピュータのファシリティに変化している。

その大型計算機センター時代の話である。大阪教育大学に着任した翌1983年にはデータステーションの運営委員となった。そのころ大阪教育大学には,京都大学と大阪大学の両大型計算機センターのリモートステーションとしてデータステーション(地区連絡所)が設置され,リモート回線で結んだミニコンでジョブ処理が行われていた(その話はまた別の機会に)。

全国の大学は,それぞれの地区の大型計算機センターを核としたブロックにわけられ,大型計算機システムやデータベースの共同利用が推進されていた。大阪大学の大型計算機センターは第6地区のセンターとして,大阪・和歌山・奈良・兵庫・岡山・香川・愛媛・高知・徳島がサービスエリアだった。そして,地区の各大学には阪大大型計算機センターの利用支援のため「プログラム指導員」が1名づつ置かれた。

この他に,阪大大型計算機センターに常駐して相談に当たるのが「プログラム相談員」だった。プログラム相談員は,週1回2時間の常駐で,利用負担金の7万円/半年の免除やマニュアルの無償提供,ジョブの優先実行などの特典があった。一方,プログラム指導員の方は,随時の対応であり(そもそも相談もそんなにないわけで),マニュアルが一定限度で無償提供された。その後,マニュアル以外のコンピュータ関係の図書を2〜3万円/年程度購入することもできるようになった。

年1回のプログラム指導員の協議会が吹田キャンパスの阪大大型計算機センターで開かれ,センターの教職員の方々と意見交換させていただいた。大中幸三郎先生や後藤米子先生などがいらっしゃった時代である。1990年代になると,大型計算機センターはネットワーク,ワークステーションやUNIXへと守備範囲を広げ,現センター長の下條真司さんの時代がやってくる。プログラム指導員や相談員では,家本修先生,武知英夫先生,藤本益美先生の名前が懐かしい。阪大で同期の平井國友さんも奈良県立医科大からこられていた。

さて,1983年までは本学の物理化学研究室の南波嘉幸先生が大阪教育大学のプログラム指導員を務めておられたが,1984年から私と交代することになった。その指導内容はFORTRANとしていたが,プログラム相談されることはほとんどなかった。生物学・生命医学分野のデータベースBIOSIS利用のためのセンターへの利用登録の話があったかどうか。1994年には,指導内容をインターネット,Mathematica,Fortranとしている。1995年には,連絡先メールアドレスを記載するようになった。1999年にプログラム指導員は利用指導員と名前を変え(コンピュータの利用の様子がすっかりかわってしまったのだった),これが最後のお勤めとなった。

その後,阪大の大型計算機センターは情報処理教育センターと統合して,2000年からサイバーメディアセンターとなり,現在に至っている。

大阪大学大型計算機センター(2)へ続く)

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