2018年12月31日月曜日

冷血(下):高村薫

冷血(上):高村薫からの続き

小晦日に,マンションの自転車置き場の自転車に来年用のシール(印刷が平成から西暦に変更された)を貼ろうとした。強風のせいなのか自分の自転車を含んで10台以上が将棋倒しになっていた。端から順に起そうとしたところ,最初の2台が絡み合っていて無理に力を入れたため,ぎっくり腰になってしまい往生している。この年末年始は要介護認定状態の予行演習で終わってしまいそうだ。

予想通り,冷血の下巻では上巻以上の何かはまったく生起しない。いろいろな登場人物のモノローグの集合で終わってしまった。しかもそのモノローグは,ほとんどが高村薫の口から直接に発せられているような同じ響きを帯びている。気になった単語は「とまれ」。ともあれかくもあれ→ともあれ→とまれ,さもあればあれ→さもあれ→さまれ,のとまれが地の文で多用されていた。戸田吉生の文中には「ともあれ」で出てきていたが,井上克美の文中に一ヶ所「とまれ」がでてきた。小説にカタルシスを求めるのであれば,「冷血」は期待外れとなるかもしれない。黒板への板書だけで授業を進めるように,ゆっくりと同じテーマを何度も塗り重ねて,アクティブ・リーディングを誘導するという意味ではありかなと思う。

法務に係わるものにせよ,科学に係わるものにせよ,教育に係わるものにせよ,自分たち自身を,自分たちのステークホールダーを,あるいは自分たちの振るまいを見る世間を,納得させるために,一定の因果関係とそれを物語る言葉を必要としているということだろう。物語を必要としないのは,結果をマネーで測定できる人達だけなのかもしれない。そして,我々は既存の物語が不要な世界を目指す船に乗っている。“その中においてですね” 歴史的事実や統計データや行政文書の隠蔽や改竄がしごくあたりまえのように遂行され,物語がいつのまにかすり替えられてしまう。みなが薄々気付いているはずだが,何も見なかった振りをするか,逆に,声高にニセの物語を語り始める。もう,それに対する歯止めはきかなくなっている。

「大晦日定めなき世の定めかな」(井原西鶴 1642-1693)


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