2022年3月2日水曜日

クリミア

ロシアによる ウクライナ侵略問題の前にあったのが,ロシアによるクリミアの併合だった。高校のときに世界史を履修していたにも関わらず,世界史の常識に欠けているので,復習することに。

(1)ロシア帝国は1721年から1917年まで続き,その首都は,バルト海に面したサンクスペテルブルグ=ペトログラードだった。バルト海といえば,バルチック艦隊の母港は,かつては現在のラトビアにあるリバウ。現在は,リトアニアとポーランドに挟まれたロシアの飛び地であるカリーニングラードオイラーの橋の問題で有名なケーニヒスベルク)。なぜか,ロシア帝国の第8代皇帝のエカチェリーナ二世が,ポプラ社のコミック版世界の伝記にあって,小学生の人気ベスト10に入っている。どういうことなの?

(2)エカチェリーナ二世が1784年にクリミア半島をロシアに編入した。クリミア戦争は1853年から1856年にわたり,ロシア帝国とオスマン帝国の間でクリミア半島の周辺などで戦われた。黒海周辺をロシア帝国が支配することで,海軍力が増強されることに危惧をいだいたイギリスとフランスがオスマン帝国側に参戦する。クリミア半島南部の黒海艦隊の母港のセヴァストポリが陥落し,クリミア戦争はロシア帝国の敗北で終る。1905年のロシア第一革命が戦艦ポチョムキンの反乱につながる。

(3)1917年のロシア革命後,ボリシェヴィキがロシア帝国の各地の内戦を制圧する。その過程で誕生したクリミア・ソビエト社会主義共和国はロシア共和国に帰属するものとなり,1921年に,ロシア・ソビエト社会主義共和国(ロシア),ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国(アゼルバイジャン・アルメニア・グルジア),ウクライナ社会主義ソビエト共和国白ロシア・ソビエト社会主義共和国(ベラルーシ)の4ヵ国によってソビエト社会主義共和国連邦が成立した。1945年の国際連合の原加盟国51カ国には,ロシア連邦に加え,ベラルーシ,ウクライナが入っている。

(4)1954年,当時のフルシチョフソビエト連邦共産党中央委員会第一書記(1958年のソビエト連邦第4代閣僚会議議長=首相就任より前)は,ウクライナ融和策として,ペレヤスラフ協定300周年を記念し,ソ連の領土内の管轄変更としてクリミア半島をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管させた。なお,フルシチョフはウクライナ人であり,ウクライナのとの国境付近のロシアで生まれ,その後,ウクライナに移住している。

(5)1991年のソビエト連邦の解体後,クリミア半島の帰属や国境線の確定を巡って,ロシア,ウクライナ,ベラルーシの協議が行われたが,ロシアは,ウクライナの核兵器廃棄の方を優先して,クリミア半島をウクライナの領土と認めた。ただし,セヴァストポリの黒海艦隊の母港としての租借権や,クリミア半島東部のケルチ海峡の自由航行権,海底資源の共同開発を条件とした。

(6)このような歴史的経緯から,クリミア半島にはロシア系住民が多いため,ウクライナ国内におけるクリミア自治共和国としての位置を確立する。これが,住民投票などを経て,ロシアへの帰属を決議することになるのが,2014年のクリミア危機である。ロシア軍の装備を持つ,リトル・グリーンメンとよばれる覆面の武装集団がこの過程で暗躍している。



写真:クリミア半島の周辺(世界史の窓より引用)

[1]ウクライナ情勢から見た地域と国家(塩川伸明,2014)

[2]クリミアの歴史(Wikipedia)


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