2019年11月16日土曜日

米山保三郎

日経朝刊の連載小説が伊集院静の道草先生だ。最初はフォローしていなかったが,漱石の話だったことに気づき時々読んでいる。夏目金之助(1867-1916)の大学予備門(第一高等中学校)での友人として金沢出身の米山保三郎(1869-1897)がでてきた。金沢といえば宇ノ気町出身の西田幾多郎(1870-1945)も同時代の空気を吸っている。

米山保三郎については,Yahoo!知恵袋に北國・富山新聞の情報として,生没年と生誕地が野町2丁目であること,父が加賀藩の算用侍であったことなどが記されていた。東京帝大の哲学科で学び,かなりの秀才だったようだ。「吾輩は猫である」では米山をモデルとした天然居士=曾呂崎が登場している。米山は実際に天然居士という号を持っている。米山の助言によって金之助=漱石が建築ではなく文学を目指すことになった。
まだ子供のとき,財産がなかったので,一人で食わなければならないという事は知っていました。忙がしくなく時間づくめでなくて飯が食えるという事について非常に考えました。しかし立派な技術を持ってさえいれば,変人でも頑固でも人が頼むだろうと思いました。佐々木東洋という医者があります。この医者が大へんな変人で,患者をまるで玩具か人形のように扱う,愛嬌のない人です。それではやらないかといえば不思議なほどはやって,門前市をなす有様です。あんな無愛想な人があれだけはやるのはやはり技術があるからだと思いました。それだから建築家になったら,私も門前市をなすだろうと思いました。丁度ちょうどそれは高等学校時分の事で,親友に米山保三郎という人があって,この人は夭折しましたが,この人が私に説諭しました。セント・ポールズのような家は我国にははやらない。下らない家を建てるより文学者になれといいました。当人が文学者になれといったのはよほどの自信があったからでしょう。私はそれで建築家になる事をふっつり思い止まりました。私の考は金をとって,門前市をなして,頑固で,変人で,というのでしたけれども,米山は私よりは大変えらいような気がした。二人くらべると私が如何にも小ぽけなように思われたので,今までの考をやめてしまったのです。そして文学者になりました。(夏目漱石「無題」,大正三年一月十七日東京高等工業学校において
[1]落第(夏目漱石,青空文庫)
[2]無題(夏目漱石,青空文庫)
[3]処女作追懐談(夏目漱石,青空文庫)
[4]明治二十四,五年頃の東京文科大学選科(西田幾多郎,青空文庫)
[5]漱石と自分(狩野亨吉,青空文庫)
[6]吾輩は猫である(夏目漱石,青空文庫)
[7]漱石の悼む大怪物(かわうそ亭)
[8]漱石とメリメ : 『吾輩は猫である』における『カルメン』の水浴(高木雅恵)
[9]漱石覚え書補篇(柴田宵曲)


(写真:夏目漱石と米山保三郎,熊本市広報記事「漱石とくまもと」より引用)




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