2019年6月24日月曜日

道徳教育(4)

(道徳教育(3)からの続き)

長田新の弟子である村井実は,今は村井純の父として名前が上ることが多いかもしれないが,1948年から1987年まで慶応義塾大学に在職していた教育哲学者である。村井実が1965年に発表した論文に「道徳は教えられるか」がある。平易な文章で明解な論理が示されており,道徳教育の原理を考える際の出発点の一つだと考えられる。

論文の内容を自分なりに要約すると次のようになる。

○「道徳を教えられるかどうか」は,ソクラテスの時代から現代の日本にいたるまで大きな課題である。道徳教育の必要性を議論し,実施のための課題の検討を進めるより前に,これを改めて問い直す必要がある。

○道徳の教育は,善悪や正義についての知識の教育と,その知識に従って行動する習慣の教育の2つの側面に分けることができる。前者が「道」に,後者が「徳」に対応する。

○道徳の知識は,(1)行為の目標や原理,(2)行為の条件や方法,(3)目標や原則に対する行為の認証,の3段階に分けられる。道徳教育を巡る最近の議論はこれらの知識の問題の吟味を欠いた情操の養成や意志の訓練に走っている。

○かつての修身教育は,行為の目標や原理の知識の注入にのみ終始し,さらに「徳」に関する教育との関係を考えていなかった。また,実際の行為の場における「道」の適用には,原則・原理の知識に加えて,歴史・社会・諸科学の知識や訓練が必要である。

○道徳教育が,歴史・社会・諸科学の知識だけでよいということにはならず,原理・原則との結びつきは必須である。また,「道」の知的要素を忘れた,心情への直接的働きかけに終始することも誤りである。

○知識がもののように授受されて教えられることはない。理解された状態をつくることが必要だ。一方,道徳に限って「教える」ことが実践的行為を保証するものでなければならないといえるのか。他の知識と同様に知的理解の上で導かれるのが実践的行為だと考えるのがよい。

○知的な理解が実践につながる例はつぎのようなものである。(1) 道徳的行為の一貫である必要条件としての目標や知識を「教える」場合。(2) 教えられるべき原理や目標が対立していて,それを克服することを「教える」必要がある場合。(3) 歴史の推移とともにある道徳的原理の廃止や変容に対処することを「教える」場合。(4) 道徳的な主体性を確立することを「教える」場合。

○道徳を「教える」ということは「道」の側面が重要な部分を占める。そのうえで,「徳」の教育は「道」を教えられた理性が,「私はそうしたくない」という矛盾から若人を救うためのものである。これらの道徳教育の必要条件を満たすことを求めるべきである。

[1]教育勅語・道徳教育に関する簡易年表(リブ・イン・ピース☆9+25)
[2]道徳の内容の歴史1890〜2015年(池田賢市・大森直樹)
[3]ラリサへの道(プラトン−ソクラテス)が,村井実の論文にある。
「メノンについては,プラトンの対話篇の中で叙述されている。そこでは,ソクラテスが正しい考えと科学の違いを,メノンを例に「ラリサへの道」として説明している。「ラリサへの道」とは、メノンが生きる道を信じて故郷のラリサを目指したように,それぞれ人間は、人生の中で真実を模索しながら、死という目的地へと生きている,と言ったのであった」(Wikipedia ラリサより引用)

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