2019年5月1日水曜日

弘学[ぐがく]

しばらく前にTwitter上で,@gugakuken(羽根弘)と@Yh_Taguchi(田口善弘)の論争があったのを発見した。

田口善弘 @Yh_Taguchi
「科学への投資の成果の享受者は国民であり,人類です。説明責任は科学者にはありません。科学者に投資するかどうかは社会が決めることなので。科学への投資の受益者が科学者だと誤解するからそういう発想になるのだと思いますが、僕は間違っていると考えています」
「その部分は適当な翻訳者が雇用されて担うべきだと考えます。科学者が素人の説明のために時間を割くのは無駄だと思います。難しいことをわかりやすく説明すること自他、特殊技能であり、そのための専門家が要請されて担うのが合理的だと考えています。科学者が片手間にできる作業ではありません」

羽根弘 @gugakuken
「科学はもちろん国民、人類に利益をもたらすものでもありますが、同時に不利益をもたらすこともあります。その功罪を以て『影響力』と表現しています。また、その科学へ投資するかどうかを社会=市民が判断するために、科学者の側の説明責任が必要となるのです」
「その『科学者』と「素人」改め『市民』との対話を仲介し支援する役割、異分野コミュニケーションの専門家の役割は『弘学者』が担うことができると私は考えています。しかし、人が人に成り代われるわけではありません。両者に対話する意志がないと、弘学者には何もできません」


制度化された科学の社会的な意味と,予算配分や説明責任の在り方は,なかなか重い問題なので,ここではこれ以上ふれない。

@gugakukenが提起している「弘学」のコンセプトはなんだか興味深い(小宮山宏の知の構造化に感じるのと同じように眉唾ものではないかと恐る恐る近づきつつ)。ただ,彼の持っている個別の科学についての認識や,彼の怪しい(観念論的な)独自理論にはまったく同意できない。

[注1]そういえば,小宮山宏は「超教育協会」の会長に祭り上げられているのだった。

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